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【成田氏長】
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秀吉が忍城の水攻めを指示した?
忍城では、氏長の指示通り、一族や家臣が頑張り、攻め手の石田三成らに抵抗しました。
三成は秀吉の【備中高松城の戦い】にならって堤防を作り、水攻めをします。
忍城のあるエリアは、北に利根川、南に荒川が流れる低湿地帯。
荒川から枝分かれした忍川の中州に城は建っていて、地下水や湧き水の豊富なところでした。
いわば水攻めしやすい場所と言えましょう。
以下、忍城の図をご覧の通り、そもそも水没しているような感じです。
しかし、三成の攻撃はあえなく失敗しました。
これにより「三成は戦下手」という評価が定着する原因にもなったのですが、最近では「秀吉が命じたからやったのであって、三成は反対していた」という書状が見つかっています。
小田原城を囲んだ段階で、まだ奥州(東北)を完全には支配しておらず、秀吉が豊臣家の武力・土木力を見せつけてやろうと考えた――なんて見方もありますね。
まあ、援軍が来ても三成は他の隊と積極的に協力しようとしなかったんですけどね。
もしかしたら三成は”現場”に向かないタイプといったほうが正しいかもしれません。
ちなみに、忍城側でも氏長の叔父・泰季が亡くなり、その息子である長親(氏長の従弟・「のぼうの城」の主人公)が指揮をとるようになるなど、トラブルはありました。
そうこうしているうちに小田原城が降伏し、忍城も開城することに決まります。
この段階で他の北条方の城は全て落とされていたため、「忍城は小田原征伐で唯一耐えしのいだ城」としても有名になりました。
となると、城中や一族の結束はさぞ強かったのだろう……と思いきや、この後功労者である長親は氏長との関係が悪化し、出奔しています。
共通の敵がいないと結束できない、というのはよくある話ですけれども。
甲斐姫が寵愛され 2万石の大名として復活
その後、氏長は、長忠と共に蒲生氏郷のもとに身を寄せました。
ここで思わぬ幸運に見舞われます。
娘の甲斐姫が秀吉に寵愛されたことがきっかけで、下野国烏山に3万7千石の大名として返り咲いたのです。
その後は特にトラブルもなかったようで、文禄の役では名護屋城まで行ったことくらいしか記録されていません。
晩年には、氏長の嫡男が夭折していたため、長忠が養子として家督を相続。
お家騒動が再発しなくて何よりですが、氏長も長忠もビミョーな気持ちになったことでしょうね……。
まぁ豊臣家の傘下になってからは氏長が京都で暮らし、地元は長忠に任せていたようなので、兄弟仲は比較的良かったのでしょう。その間のトラブルもなさそうですし。
享年55。
長忠は関が原で東軍について家を存続させているので、草葉の陰で氏長も安堵していたと思われます。
こうしてみると、ますますトーチャンのワガママが突然すぎる気もしますが、息子たちが似なくて何よりでした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
阿部猛/西村圭子『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
成田氏長/Wikipedia
忍城の戦い/Wikipedia