井伊家

高瀬姫は井伊直親の隠し子ではなく、れっきとした井伊直政(虎松)の姉なり

井伊直政の姉である高瀬(高瀬姫)。
ドラマでは「隠し子」という扱いで井伊直虎の前に登場し、井伊谷に一騒動を起こした。

もしかしたら今後もドラマを盛り上げるかもしれないが、彼女が「隠し子」であるというのは、史実的にはありえない。また「武田の間者(スパイ)」というのも、かなり無理のある話だ。

というのも史実の高瀬姫は、父の井伊直親と一緒に井伊谷へ戻ってきており、その存在は初めから知られていた。そして直親が祝田に構えた屋敷で暮らしており、ドラマのように、単独で井伊直虎の前に現れるということはありえなかった(なんせ井伊谷にきたときの高瀬は“幼女”である)。

では、高瀬とはどんな存在であったのか? 今回は夫の川手良則と一緒に見ていこう。

 


父・直親はプレイボーイで母親は誰なのか?複数の説あり

まずは高瀬姫のお墓案内板から見てみよう。

高瀬姫の墓の案内板

高瀬姫の墓は、井伊直政が藩祖となった彦根藩のお膝元、滋賀県彦根市佐和町の長純寺(ちょうじゅんじ)にある。
上の写真はその墓にある案内板であり、文面を以下に引用させていただく。

高瀬姫五輪塔
戒名 春光院殿家應宗傳大姉
寛永十一年(一六三四)八月十一日歿

高瀬姫は彦根藩井伊家初代藩主(井伊家第二四世)直政の姉。慶長五年(一六〇〇)河手主水(もんど)良則の室となる。
始祖河手重忠は延元元年(一三六六)井伊家第十二世井伊介道政と共に、宗良親王の供をして遠州に下った家柄で後、徳川家康に召され、歴戦の功者として識(し)られ、三河遠州地区の地頭職となった。
天正十年(一五八二)初代河手良則(高瀬姫の夫)は、家康の命により井伊直政に付けられ家老役(二千五百石)となる。後、戦功により四千石となり、関ヶ原戦の時には、直政の後見役として高崎城代を勤めた。

平成十九年八月
国宝彦根城築城四百年記念 たちばな会

ご覧のとおり「高瀬姫の墓」というより、「河手良則(河手とも表記)の墓」(滋賀県彦根市南川瀬町)の案内板にふさわしい内容である。

前述の通り、高瀬姫は井伊直政の姉である。

父の亀之丞(井伊直親)が信州市田郷に隠れていた時、つまり弘治元年(1555年)以前に生まれた子どもだというが、正室ひよ(ドラマでは、しの)との間に生まれたという説もある。その場合、彼女の生年は弘治4年(1558年)となり、どちらの説でも変わらないのが没年で、寛永11年(1634年)8月11日である(享年76)。

井伊直政は永禄4年(1561年)生まれであるから、3歳、あるいは6歳以上の姉となる計算だ。

亀之丞(左)とお千代(右)

美男子であった父・亀之丞はプレイボーイでもあり、逃亡先の市田郷(長野県下伊那郡高森町)ではかなりもてたらしい。関係した女性の数や子供の数は不明。笛の師匠・お千代との間に生まれた子が高瀬姫だという説もあるほどだ。

江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』では、井伊直親の子を「女子」(姉)と、「直政」(弟)としており、「女子 母は某氏。家臣川手主水良則が妻」「直政 (中略)母は奥山因幡 守親朝が女(後略)」としている。
つまり江戸幕府も、彦根藩も、高瀬と直政の母親は異なると認識していたようだ。なお、2人の父・直親は井伊谷に戻ってからも女癖が悪かったため、元許嫁だった次郎法師・井伊直虎も還俗して直親と結婚する気が湧かなかったなんて話も。

高瀬姫と川手良則の結婚は、徳川家康の命によるものだという。そしてその時期は、井伊直政と川手良則が共に徳川家臣になって以降の天正10年(1582年)とのこと。

すると、高瀬姫が1558年生まれだとしても、1582-1558=24歳であり、当時の女性としたら適齢期より10年ほど遅い。信州生まれであるならば、20代後半の可能性もある。

 

一方、夫・川手良則は旧姓を山田と言い、天文元年(1532年)に生まれ、慶長6年(1601年)に享年69で亡くなっている。
高瀬姫との結婚が1582年だとすれば、1532年生まれの良則は50歳で結婚したことになる。当時としてはかなり高齢だ。

確かに高瀬姫は継室であり、良則には前室との間に一子(川手良次)がいたらしいが、それでも高齢には変わりない。
──2人の結婚はもっと早い時期ではなかろうか。

高瀬姫の墓(彦根市の長純寺)

 


武田軍の赤備え・山縣隊で活躍し、滅亡後に徳川へ

次に川手良則の歴史を振り返ってみよう。

川手良則の居城は、川手城(愛知県豊田市川手町シロ山)にあった。もともと山田氏(川手氏)は、南朝遺臣から今川方の武将となった家系で、井伊氏と同じパターン。

その父・景隆は、「桶狭間の戦い」の時に、岡崎三城代(飯尾豊前守乗達・二俣近江守持長・山田新有衛門景隆)の1人であったが、今川義元が討死すると岡崎城を捨てて逃げ、「捨城ならば拾おう」と松平元康(後の徳川家康)が入城している。「岡崎城を捨てた」のではなく、「受け渡した」とする説もある。なぜなら、山田(川手)氏は、代々、松平氏の家臣だったからである。

山田(川手)景隆は、岡崎城を出た後は居城・川手城に逃げ込む。
が、ここも武田信玄に攻められて落城すると、「家が絶えないように二手に分かれよう」と言い、父・景隆は長野県上伊那郡辰野町に逃れ、子の良則は武田軍(山縣隊)に加わって甲府に住んだ。
武田に属してからは多くの手柄をたて、なんと信玄から「若手ながら覚えの者」と賞賛されたという。

さてその武田軍は「三方ヶ原の戦い」の直後、山縣隊が井伊谷を蹂躙した。
このとき川手良則は、当然ながら武田軍(山縣隊)の一員で参加しており、その後の武田家滅亡を経て徳川家康に仕えると、井伊直政の家臣となって井伊直政の姉・高瀬姫と結婚したという。

高齢のためか、子は1人(天正15年(1587年)生まれという)だけ。しかも生まれたのが女であったため、松平康安の三男・良行を養子とした。その川手良行は、元和元年(1615年)5月6日、「大坂夏の陣」の「若江の戦い」で討死し(享年28)、さらに彼の子・良富も寛永5年(1628)11月10日に18歳という若さで、しかも無嗣で亡くなったために、川手家は断絶している。

井伊直政の葬儀で川手良行は、直政の姉の家系ということで焼香順位1位であり、「実質的には近江井伊家の筆頭家老」とされるが、早くに家が絶えてしまったため、近江井伊家の筆頭家老といえば木俣家のイメージが強い。
なお幕末の大老・井伊直弼は、川手家の断絶を惜しみ、甥・川手良貞(新野左馬助親良の次男。後の図(はかる))に、嘉永6年(1853年)10月15日、川手家を再興させている。

演劇「浜松城 家康の愛」にて赤備えの活躍シーン。井伊の赤備えではなく三方ヶ原での山縣隊を表している

 


川手主水良則が高瀬と結婚して「井伊主水佑」と名乗った?

話は少し遡る。
今川氏真が永禄9年(1566年)に出した井伊谷徳政令で「井主」が凍結した――とある。
この「井主」は「井伊の当主」の略で、「井伊次郎法師」のことだと考えられてきたが、現在は、「井伊主水佑(もんどのすけ)」の略だと考えられている。「井伊主水佑」(『井伊家伝記』では「主水助」)なる人物については、井伊家の系図には載っていないので、どのような人物であるか不明。徳政令を凍結できるということは、井伊谷の領主、あるいは、領主並みの人物である。

井伊谷徳政令は、井伊領全体に出されたのではなく、井伊領の祝田から都田にかけての狭い地域を対象としたものであり、その地域の実質的な領主(井伊家の庶子家)が「井伊主水佑」であるとする説もある。

私の頭の中の情報の「主水介」は、川手景隆・良則親子しかいないので、
──川手主水良則が高瀬と結婚して「井伊主水佑」と名乗ったのではないか?
と仮設を立てて調べてみた。
が、ヒットしたのは、彦根藩史料『侍中由緒帳』の「天正元年再権現様ニ被召出、父・主水助之家を継三遠之地頭職被成下置」という記述くらい。

これは、「三方ヶ原の戦い」の翌年の天正元年(1573年)に川手良則が主水助家を継いで、徳川家康から三河・遠江両国の地頭職を仰せ付けられたとする史料である。井伊谷徳政令が出された永禄9年(1566年)に井伊谷で高瀬姫と結婚して「井伊主水佑」と名乗り井伊領の領主であったとする古文書ではない。
ただし、「父を継いで地頭」ということは、父・景隆が地頭であったということ(景隆も徳川家臣となり、永禄11年(1569年)、徳川家康が遠江国の今川領へ侵攻すると、景隆は、三河・遠江両国20余郷の地頭に任命されたという)であり、景隆が南朝遺臣の後裔繋がりで井伊谷にいて、「井伊谷の主水佑」(略称:井主)と呼ばれたとも考えられる。
もしそうであったとしても、それは永禄11年(1569年)以降の話であり、井伊谷徳政令が出た永禄9年(1566年)の話ではない。

昨年(2016年)末、新史料による「井伊直虎男性説」が発表された。その記事を読んでいて、驚いた。
なんと新史料には、「三方ヶ原の戦い」後の武田軍(山縣隊)による井伊谷蹂躙において、「河手主水の妻」が捕虜になったが、武田家滅亡後、無事帰還したと書かれているとのこと。「妻」ということは、結婚して井伊谷にいたことになり、当然、夫の河手主水も井伊谷にいたであろう。

──我が意を得たり!
と一瞬喜んでしまったが、原文を読んだわけではなく、その中に「河手主水の妻」とあるのか、「高瀬姫(後の河手主水の妻)」とあるのか不明なので、糠喜びに終わるかもしれない。
そもそも新史料では、「今川庶子家の関口氏経の子が『井之次郎』と名乗って井伊谷の領主になった」としており、その時期については、「然共、井之次郎若年故、御陣之時ハ井之谷衆新野左馬助旗本ニ被仰付候也」(しかし、この井之次郎は若かったので、出陣の際には井伊谷衆の新野左馬助親矩を旗本として補佐させた)とあることから、新野左馬助が討死する前、すなわち、井伊谷徳政令が出る前には井伊谷にいたのであり、今川氏が出した徳政令を、井伊谷領主である今川方の井之次郎が凍結するはずがない(なにぶん原文を読んでいないので、想像もここまで)。

──遠江井伊氏の研究が遅々として進まないのは史料が少ないからである。
そんなことを改めて思い知らされた。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。


自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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