今川家の太原雪斎しかり。
北条家の板部岡江雪斎しかり。
はたまた毛利家の安国寺恵瓊しかり。
優れた大名のもとには優れた僧がいて、他国との交渉役をはじめ、ときには国の運営方針にも携わるなど、いわゆる「軍師」的な働きをしてきた。
それは大河ドラマ『おんな城主 直虎』で注目された井伊家も同様。
南渓瑞聞(なんけい ずいもん)――人呼んで南渓和尚という僧がいた。
南渓は、井伊直虎の曽祖父・直平の次男(ただし養子・詳細は後述)にして、井伊家菩提寺・龍潭寺(りょうたんじ)の住職。
幼き頃は文武二道の達者であり、井伊家宗主の直平は「武士として育てたかった」ようだが、仏教や兵法などを学び、井伊家の相談役、つまりは軍師的存在となった。
実際、井伊家の危機に際しても適切なアドバイスをしている。
一例が、幼き頃の直虎の出家に際して「次郎法師」と僧扱いにしたことであろう。
もし彼女が“尼”として仏門に入っていれば還俗することができず、井伊家の実質的宗主に収まることはなかったハズだ。そうなれば御家断絶の憂き目に遭っていた可能性も否めない。
さらに南渓は、今川家から命を狙われていた虎松(後の井伊直政)を鳳来寺に逃し、徳川方の松下家・養子として守り切るなど、後に井伊家を中興する直政を救っている。
いったいこの僧は何者なのか?
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井伊家20代宗主・直平の次男
南渓の生まれは詳細が不明で、おそらく1507年であろうと考えられている。
各史料を眺めてみると、『井家粗覧』では井伊家の次男、『寛政重修諸家譜』では三男、『系図纂要』では五男とあり、本稿では次男で進めていく。
彼が仏門に入ったことは当時の武家としては特段珍しいことではない。
武家の子息が僧侶となる理由をざっと挙げてみよう。
①兄弟間の相続争いを回避
②分家による勢力減退を避ける
③一族の菩提寺を世話するため
④「一人出家すれば九族天に生まる」「一子出家すれば七世の父母皆得脱す」という信仰があった
⑤当時の寺は最高学府であり、合戦や領地経営に役立つ高度な智恵を学ぶ
おおむね上記のような趣旨が多く、南渓については「キープ」という意味合いが強かったと思われる。
キープとはどういうことか?
井伊家の男たちはもともと今川家と戦い、敗れてその支配下におかれ、更には傘下として合戦に駆りだされて次々に命を落としていった。
かような状況ではいつ井伊直平の長男も亡くなるかわからず(実際、長男の井伊直宗は直平より先に死んでいる)、南渓も状況によっては井伊家を継ぐかもしれない――そんなポジションにいた可能性が考えられる。
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ただし、『南渓過去帳』によると彼の両親の戒名は「父:実伝秀公居士/母:善室賢修大姉」となっている。
井伊直平夫妻の戒名とは異なるので、養子と考えたほうが自然のようだ(直平の子は、直宗以外は養子や側室の子だという)。
文武兼備の才人ながら学芸を選んで仏門へ
文武兼備だった南渓は、武芸(武事)の才能に恵まれてながらも、学芸(文事)を選んで仏門に入った。
通説では、井伊直平が1531年に井伊谷八幡宮を遷座し、翌年その地に龍泰寺(りょうたいじ・自浄院の後身寺で後の龍潭寺)を建立。南渓は後にその住職となる。
1544年、井伊直平の子(南渓和尚の兄弟)である井伊直満・井伊直義兄弟が12月23日に誅殺されると、直満の子・亀之丞(後の井伊直親)にも殺害命令が出された。
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このとき南渓が動く――。
勝間田藤七郎が「今村」と名を変え、南渓の弟子が住職を務める東光院(渋川)へ亀之丞と一緒に逃げ込み、追手がそこまで迫ってきたので、一同は更に信州の松源寺(市田)まで逃亡。
現地では、国衆の松岡氏に保護され、市田郷で10年間を過ごすことになり、それも全ては南渓が差配した。
この亀之丞は、井伊直虎の許婚者であった。
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直虎の出家の理由については諸説あるが、亀之丞が逃亡先で『死んでしまった』と思い込んだのがキッカケだったとされる。
同家にとっては大きな分岐点となったのだ。
井伊家と南渓にも多大な影響を与えた桶狭間
1560年は南渓にとっても井伊家にとっても大きな一年となった。
まずその年の元旦、井伊谷に戻ってきた井伊直親夫妻により「子授けの祈祷」を請われ、それが功を奏したのか、翌1561年2月9日、虎松が生まれた。
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生誕の地は大藤寺。
ご本尊は「世継観音」で、直親夫妻が出生祈願をしたことから「子授けの寺」として有名になった。
ただし、同寺は1955年、龍潭寺に吸収されて廃寺となっており、現在の「世継観音」は龍潭寺にある(特別展の時に一般公開される)。
さらに1560年には、日本史上にも残る一大転機を迎えている。
【桶狭間の戦い】だ。
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