井伊直満

井伊直満の菩提寺である円通寺

井伊家

今川家に誅殺された井伊直満(直政の祖父)最期の言葉は「呪い殺す」だった?

天文13年12月23日(1545年2月4日)は井伊直満の命日である。

徳川四天王の一人・井伊直政の祖父であり、2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも登場(宇梶剛士さん)。

主人公だった井伊直虎から見て、大叔父(直虎の祖父・直宗の弟)にあたり、井伊家傍流の家系であった。

しかし最期は今川義元によって誅殺という非業な展開を迎えてしまう。

なぜ直満は殺されてしまったのか?

そもそも一体どんな人物だったのか?

井伊直満(なおみつ)の事績を振り返ってみよう。

 


傍流だった井伊家の息子が跡を継ぐ

まずは以下の家系図をご覧いただきたい。

井伊直満は、井伊家20代宗主・直平の次男である。

井伊家系図

前述の通り、直虎から見れば大叔父に当たり、直満の一族は当初から井伊家の宗主になる資格はないとされてきた。

というのも直満は側室の子であった可能性が高く、更には長兄・直宗に嫡男の虎松(後の直盛・虎丸とも)が生まれたからだ。

しかし、その直盛が跡を継いでから風向きが変わり始めた。

直盛の子が女児のおとわ(後の直虎)だけで、なかなか男児に恵まれなかったからである。

井伊直平は、平安以来の名門・井伊家の血を繋ぐため

このまま直盛に男子が生まれなければ、おとわと直満の子・亀之丞(後の井伊直親)を結婚させ、亀之丞に井伊家を継がせる――。

と早々に決めた。

おとわがまだ2~3歳の時だったという。

この決定に大喜びしたのが本稿の主役・井伊直満である。

宗主になれるはずのない井伊家傍流の自分。

しかし、我が子が、次期宗主になる可能性が急に膨らんだのである。これを喜ばずして何を喜ぼう。

直満は有頂天になった。

そしてそれは行動にも現れた。

まだ息子が宗主でないにも関わらず、調子に乗って井伊家の経営方針に口を挟むようになったのである。

 


武田に降ろうとしている、と讒言されて呆気なく

調子に乗る井伊直満に対し、激しく憎悪を抱くようになった人物が、井伊家にいた。

家老の小野政直である。

政直は、我が子の小野政次とおとわを結婚させ、最終的に「井伊領を乗っ取ってやろう」という野望を抱いていたとされる。

それが直平の鶴の一声で露と消えてしまったのである。

「息子の嫁に」と考えていたおとわは直満の子・亀之丞に奪われ、更には直満も増長して調子に乗るばかり。

政直、我慢の限界を超えようとしていた。

そんな天文10年(1541)のこと。

武田の兵が井伊領北部へ侵略してきたため、井伊直平は、直満と直義の兄弟に討伐を命じた。

命令が下され、慌てて武具の準備を整える兄弟。そんな2人がある男の邪な計画に気づくわけもない。

家老の小野政直は今川義元に対し

「井伊直満・直義兄弟は、武田と組んで今川家に逆らおうとしている。その証拠に武具の準備もしている」

と讒言(ざんげん)したのだ。

讒言とは「ある人を陥れるため事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げ、その人のことを悪く“目上の人”に言うこと」であるが、果たして直満は本当にハメられたのか。

その辺の詳細は、『井伊家伝記』「井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害之事」に詳しい。

「一 天文十年辛丑之頃ゟ甲州武田信玄差圖を以、甲州家人漸々東北遠江境井伊家之領地段々押領申候。依之、彦次郎直満、平次郎直義両人、則、信濃守直平公之下辞ニて、信玄之家頼と相挑候内支度被致候を、直盛公之家老・小野和泉守、亀之丞(井伊彦次郎直満之實子、井伊肥後守直親公童名。井伊侍従直政公實父也)養子之儀ニ付遺恨故、密ニ駿府江罷下り候て、今川義元江、両人私之軍謀相企之旨、讒言春。因之、早々召状到来、則、直満、直義両人共ニ駿府江下向。終ニハ天文十三甲辰十二月廿三日ニ傷害。々々之後、彦次郎屋敷、并、山林不残、龍潭寺末寺・圓通寺ニ寄附。」(『井伊家伝記』)

【意訳】一 天文10年(1541)の頃より甲斐国の武田信玄の指図で、武田軍がしばしば遠江国の東北の国境に位置する井伊家の領地を少しずつ横領し始めた。これにより、井伊彦次郎直満と井伊平次郎直義の二人は、井伊信濃守直平公の命令で、武田信玄の家来と戦う準備をしていたのを、井伊直盛公の家老である小野和泉守は、亀之丞(井伊彦次郎直満の実子。井伊肥後守直親の幼名。井伊侍従直政公の実父)の養子の儀(亀之丞を直盛の娘・おとわの婿養子にして井伊家を継がせる事)について不満があったので、密かに駿府へ行き、今川義元に直満・直義の二人が、「私的に武田軍と軍謀密策を企てている」(井伊家とは関係なく、二人の意志で武田信玄と内通している)と讒言をしたので、すぐに「駿府に来るように」との召喚状が直満・直義兄弟に来た。直満・直義の二人とも駿府へ。そして、天文13年(1544年)12月23日に殺害された。殺害の後、井伊彦次郎直満の屋敷や山林は、残らず龍潭寺の末寺の円通寺(昭和31年(1956)、円通寺と明円寺は合併して晋光寺となった)に寄進された。

あらためて簡潔に説明すると。

武田と内通していると讒言された直満と直義は、今川義元によって殺された――。

以上、なんとも呆気ない最期であった。

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