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【井伊直満】
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「井殿の塚」に遺骨
小野政道の讒言により、あまりに簡単に死んでしまった井伊直満・直義兄弟。
井伊家の居館の北には、宗良親王のための二宮御所が建てられたが
現在は直満・直義兄弟の菩提寺・晋光寺(旧・円通寺)となってい
両名が亡くなったのは、天文13年12月23日(1545年2月4日)。
現地の案内板には、2人が殺されるまでの経緯にも触れている。
上記の写真では少々見づらいかもしれないので、下記に記しておこう。
天文十三年十二月(西紀一五四四年)井伊直平公の嫡子直宗公の舎弟直満並びに直義兄弟は、戦国大名今川、武田両軍の対立に際し、家老小野和泉守道高の讒言(ざんげん)により、駿河の今川館に召喚され、遂に傷害されるに至りました。
里人はこれを憐れみ、末弟井伊直元公に乞い、供養のため両者の塚を築き遺骨を収めて輪塔を建て塚の上に一本の松を植えたと言い伝えられています。
以来これを濫塔(らんとう)の松、或いは井殿の塚と称し香華が絶えなかったと言うことです。
この里に生れ、箕輪に封ぜられ、転封して彦根の太守となった井伊直政公は、直親の子で正に直満の孫に当ります。
嘉永五年六月、大老井伊掃部頭直弼公は当地に来り此の墓所を礼拝して、石垣等を寄進したと伝えられています。
平成元年八月吉日 引佐町歴史と文化を守る会
引佐支部有志一同
直満の遺骨は「井殿の塚」に埋められている。
塚の上にある「お手植えの松」は井伊直元が植えた松だといい、「濫塔(らんとう)の松」と呼ばれていたが、江戸時代に枯死してしまい、現在はタブノキの巨木が生えている。
井伊氏居館の北西の隅にあるこの「井殿の塚」の周囲の玉垣は、嘉永5年(1852)、36代宗主・井伊直弼が寄進したものだそうだ。
今川義元に向かって「呪い殺してやる」
浜松市文化財課は、大河ドラマ「おんな城主直虎」の放映に合わせ、
「龍潭寺井伊家墓所」
「井殿の塚」
「井伊直親廟所」
など10ヶ所の石塔の形状や銘文、材質などを詳細調査。
その内容をまとめたリーフレット『戦国期の国衆 井伊氏ゆ かりの石塔』(A4カラー8ページ)を作成し、2016年9月10日(土)に現地見学会を開催した。
この調査によると、「井殿の塚」の石塔は、「上部の相輪と基礎部分は戦国時代の石材、塔身部分は後世に補われた石材」であり、戦国時代から大切に扱われ、補修されてきた石塔である事が分かったと結論づけている。
それにしても奇妙な話である。
天文6年(1537年)2月、今川義元は、甲斐国守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と「甲駿同盟」を結んだ。
家督を相続した武田晴信(信玄)とも同盟関係を続け、高遠合戦(天文13年10月16日から天文14年6月10日)では援軍も派遣している。
そもそも武田軍が、今川義元の領地である遠江国へ攻め入るはずがない、のである。
井伊直満・直義兄弟は、遠江国に逃げ込む高遠頼継軍を討つため、そして、今川義元の同盟者・武田信玄を支援するため出陣の準備をしていたのかもしれない。
さらに言えば、小野政直が「井伊直満・直義兄弟は、武田と組んで今川家に逆らう準備をしている」と讒言した時、今川義元は「武田は同盟者であるので、事の真偽を確かめる」と小野政直を追い返すことも出来たハズ。
にもかかわらずなぜ両名は殺されたのか。
実に奇妙な話である。
ともかく井伊直満・直義兄弟は、今川義元の判定を聞いて
「呪い殺してやる!」
と叫んで切腹したとも伝えられている。
桶狭間の戦いで、敗れるはずのない今川義元の敗戦の原因が、この呪いであったかどうかは定かではない。
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/