井伊家

井伊直親(徳川四天王・直政の父)が今川家に狙われ 歩んだ流浪の道

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井伊直親
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祝田期(1555-1559)20歳~24歳

その後、伊那谷に武田信玄が侵攻。

松岡氏が武田の軍門に下ると、亀之丞を殺すべく画策したとされる家老の小野政直もタイミングよく病死し、井伊谷へ帰ることにした。

ただし、すぐに戻るのではなく様子をうかがうため、渋川に1ヶ月間滞在して井ノ八幡宮(井伊直盛改修の渋川八幡宮)に「青葉の笛」を奉納したとか、奥山に1ヶ月間滞在して奥山朝利の娘・ひよ(ドラマ『おんな城主 直虎』では「しの」として登場)と結婚したとも言われている。

青葉の笛と井ノ八幡宮由緒書き

青葉の笛と井ノ八幡宮由緒書き

首尾よく井伊谷に戻ると、亀之丞は元服して「井伊直親」と名乗り、宗主・井伊直盛の養子となった。

当然ながら直虎とは結婚しておらず、井伊谷城には宗主・井伊直盛もいたので、直親には祝田に1000石与えられた。

この「直親屋敷」(古文書では「祝田城」)では妻・ひよと共に住み、市田郷で10年間共に過ごした今村藤七郎が家老として付いていたが、「藤七郎は井伊谷の状況を知らない」として、井伊直盛は「井伊谷七人衆」の一人・松下源太郎清景(直親の死後、その妻・ひよと再婚)を家老として補佐させている。

そして帰国して5年後。

22代宗主・井伊直盛が【桶狭間の戦い】で今川義元に追い腹して果てると、井伊直親は第23代宗主となるのであった。

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残念ながら、この帰国から宗主になるまでの5年間については、いくら史料を探しても直親の動向は不明である。

唯一、今川家分限帳に「小山城主」とあるだけで、その城は、井伊谷から遠く離れた静岡県榛原郡吉田町にあるので、城主だったとは考えにくい。

※分限帳は、江戸時代に書かれた偽物が多い

 

宗主期(1560-1562)25歳~27歳

遠江に帰国して5年。

直盛の死で宗主になった直親であったが、帰国からの5年間は子に恵まれなかった。

そこで永禄3年(1560)1月1日、南渓和尚に子授けのご祈祷をしてもらい、観音様にも子授け祈願をしたところ、妻・ひよは妊娠、永禄4年(1561)2月9日、嫡男が生まれた。

第24代宗主になることが約束され、前宗主・直盛の幼名「虎松」を引き継いだ待望の嫡男。後の徳川四天王・井伊直政である。

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※「虎松」は、直宗、直盛の幼名とされる一方で、直盛の幼名を「虎丸」とする古文書もある。

いずれにせよ、虎の目を持つ一族の子であることには間違いない。

さて、宗主になった井伊直親は、桶狭間で討たれた義元に替わって新しく今川家宗主になった氏真を見限り、徳川家康に付くことを決めた。

が、家老の小野政次(小野政直の子)によってその意が今川氏真に告げ口され、今川忠臣・朝比奈泰朝によって直親は掛川市十九首付近で討たれてしまう。

井伊直親(市川洋平さん)の首をはねる朝比奈泰朝(加藤正さん)

井伊直親(市川洋平さん)の首をはねる朝比奈泰朝(加藤正さん)/磯田道史脚本「直虎」より

掛川城の城主・朝比奈泰朝には、今川氏真から井伊谷城攻めの命令が下され、泰朝は既に出陣の準備を終えて、鎧を身にまとっていた。

そこに井伊直親が「弁明だからと鎧を付けず、常装(侍烏帽子に直垂)でやって来た」ため、城下の西の入り口(現在の掛川市十九首)付近で簡単に殺すことが出来たという。

「此度は今川家之疑念を申被んが為なれば、六具等之用意はなし。皆々素肌武者なれば、主従廿五人、不残討死也。」(『礎石集』)

※六具(りくぐ):6種で一揃いの武具。「鎧の六具」は、胴・籠手・袖・脇楯・脛楯・脛当の6種というが、異説もある。また、「大将の六具」「単騎の六具」「歩兵の六具」もある。ここは「具体的にどの6つ?」と考えずに、「甲冑と武具」程度の押さえでよかろう。

永禄5年(1562)12月14日、井伊直親、討死。享年28。

この時、虎松は2歳であった。

井伊直親の首塚(灰塚)

井伊直親の首塚(灰塚)

直親の首は、掛川城下に晒された。

が、夜になって荻原藤左衛門が盗み出し、祝田へ持ち帰って埋めたと伝わる。

それが「直親の首塚」(首のない遺体を焼いて、その灰を埋めた「灰塚」とも)で、横に植えられた松は枯死した。

※直親の父親である直満の墓(「井殿ノ塚」)の横にも松が植えられたが、やはり江戸時代に枯死して、現在はタブノキが生えている。松の寿命は400年という。

一方、直親を追い込んだ小野政次は、後に徳川家康に処刑されている。

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さらに家康は、虎松に会うと、

「實父直親ハ、家康カ遠州発向之隠謀露顕故、氏真障害為致。家康カ為ニ命を失ひ直親カ實子、取立不叶。」(『井伊家伝記』)

【大意】直親は私(家康)と組もうとしたせいで討たれたので、その子を取り立てないわけにはいかない。

と言って、虎松に「万千代」という名と300石を与えたという。

井伊直政の出世物語、その始まりであった。

龍潭寺の直親供養塔(中央)。右が直虎で、左がひよの「両手に花」状態

龍潭寺の直親供養塔(中央)。右が直虎で、左がひよの「両手に花」状態

蛇足であるが……。

家康と虎松(直政)の出会いシーンは、実に説得力があり、そして魅力的なストーリーである。

徳川&井伊ファンにとっては「家康、かっこいい!」「さすが井伊家の大恩人!」と絶賛したいところだが、同時に江戸時代に書かれた本が「徳川中心史観」であることも注意せねばならない。

すなわち

「徳川家康は善人であるから、彼に処刑された人を悪人にしなければならない」

「井伊家は早い時期から(徳川家康の遠江侵攻以前から)徳川に付いていたとアピールしたい」

そんな発想から考えだされたストーリーの可能性は否めないだろう。

当時、【小野政次の怨霊が出た】という風評が広まっており、それはつまり人々が『無実の罪で殺されから、怨霊になって出たんだな』と認識していたことに他ならない。

これも歴史の一つであろう。

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著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。

モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。

公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」

https://naotora.amebaownd.com/

Sengoku Mirai s 直虎の城

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