万治2年(1659年)6月28日は井伊直孝の命日です。
と言っても「誰それ?」と思われるか、あるいは「“真田丸”で痛い目に遭わされた武将だよね」というイメージが浮かんでくるでしょうか。
いずれにせよ現代においては、不名誉な評価になりがちなこの直孝。
徳川四天王・井伊直政の息子であり、赤鬼として恐れられた父親と比較されると、その功績は雲泥の差のように思われるかもしれません。
しかし、実際はどうなのか?
これが直孝の事績を振り返ると捨てたもんじゃない……どころか、実は家康から見込まれ、“徳川を守る先鋒”として井伊家の礎を築いたとも言える存在だったりします。
今では「ひこにゃん伝説」に登場するお殿様としても親しまれている。
井伊直孝の生涯を振り返ってみましょう。
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井伊直政の二男として
徳川四天王の一人である井伊直政は、主君である家康の養女・花(唐梅院)を妻としていました。
しかし、井伊直孝はこの妻の子ではありません。
天正18年(1590年)に印具道重の娘(養賢院)を母として生まれ、何らかの事情によりその出生は隠されていたとされます。
幼少期の直孝は、井伊領内の北野寺に預けられ、そこで育ちました。
当時の僧侶は教養に溢れており、学問に接する場としての生育環境は、かなり良いところといえます。
そして数え年で直孝が13才になった慶長7年(1602年)、父の直政が亡くなると異母兄の井伊直継が彦根藩主となり、直孝は徳川秀忠に仕えることとなりました。
秀忠が2代将軍を引き継いだのは、それから3年後の慶長10年(1605年)のこと。
直孝も従五位下掃部助を与えられ、以降、この地位は井伊家に引き継がれてゆきます。
ただし、当時はあくまで分家の立場であり、慶長15年(1608年)に上野白井藩1万石の大名となると、慶長18年(1613年)には伏見城番役に任ぜられるなど、一応は順調な出世を遂げていました。
さて、ここで改めて考えてみたいのが直孝のポジションです。
彼は井伊直政の二男。
長男である兄は、正室の母から生まれ、すでに彦根藩主となっていました。
もしも、生まれた時代がもっと遅ければ、直孝はそのまま二男としての生涯を終えることになったでしょう。
しかし当時はまだ、江戸幕府が始まったばかりの頃。
西には秀吉の遺児である豊臣秀頼と、その母である淀殿がいます。
慶長19年(1614年)まで、あと1年というタイミング――大坂城周辺には、ただならぬ緊張感が漂っていました。
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“真田丸”で下手を打ってしまった直孝
慶長19年(1614年)に何が起きたのか?
同年11月、東西両者の交渉はまとまらず、ついに【大坂冬の陣】の火蓋が切って落とされました。
難攻不落の大坂城に籠城する豊臣軍。
対するは、巨大な要塞を取り囲む徳川軍。
この合戦で、赤備えのヒーローといえば真田幸村(信繁)であり、赤鬼の父を持つ井伊直孝ではありません。
それどころか直孝は、大坂城から少し離れてポツンと島のように浮かんでいた「真田丸」へ突撃をしかけ、完膚なきまでに撃退される“やられ役”として、後世にまで名が知られるようになってしまいました。
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こうなると出鼻をくじかれたとして家康に叱責されそうなものですが、意外や意外、評価は悪くありません。
むしろ「味方を鼓舞した」という理由で家康に庇われ、お咎めもなかった。
このときの家康には、ある頭の痛い問題があったのです。
実は家康は、井伊家の行末を案じていました。
直孝の兄・井伊直継はどうにも頼りなく、御家騒動になりかけるような家臣団の離反が相次いでいたのです。
そのため直継は謹慎処分とされ【大坂の陣】には直孝が出陣。
もしもこの大戦で直孝がカリスマ性を周囲に見せつけることができれば、家康としても井伊家の当主をすげ替えることができます。
ところが“真田丸”で下手を打ってしまった直孝。
翌慶長20年(1615年)の【大坂夏の陣】で失地回復できれば……という場面で本領発揮となりました。
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