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【井伊直平】
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今川家臣として活躍の時代(1536~1563)
1536年に今川家で義元が家督を継ぐと、井伊家に対する戦略の変化が生じた。
※以下は今川義元の事績まとめ記事となります
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今川義元は、東の後北条と縁を切り、北の武田と甲駿同盟を締結(後に後北条とも復縁して「甲相駿三国同盟」が結ばれる)。
敵は西の織田氏となり、おそらく義元の相談役・太原崇孚(たいげんそうふ)が、次のような考えを表明した。
「三河国と遠江国の“境目の衆”井伊氏とは和解し、確実に味方につけた方が良い」
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かくして井伊氏は今川家臣となり、歴代宗主は対織田の西征に参陣、後の田原城合戦や桶狭間の戦いで命を落とすことになる。
配下として従いながらも、おそらく直親(井伊直政の父)は誅殺されており、直平は今川家臣となった苦渋を味わい続けた。
氏真に反逆を疑われ、直後の出陣で不審な死
1560年桶狭間の戦いを経て、今川氏真が宗主になると、井伊家に新たな不幸が舞い降りる――。
『井伊直平公一代記』や祖山『井伊家伝記』『井伊氏系図』によると、1563年、氏真は織田信長征伐のために出陣。
軍の先頭が吉田(愛知県豊橋市)、最後尾の井伊直平隊が白須賀(静岡県湖西市白須賀)に宿陣していた時、折りからの強風で篝火が倒れ、井伊氏の陣はもちろん、白須賀の町が焼けてしまった。
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『これは井伊家の謀反だ』と軍議で判断されると、氏真は『前に織田、後ろに井伊の挟み撃ちでは勝ち目がない』と退却し、駿府の今川舘に直平を呼び出し問い糺す。
「今回の火事は反逆なのか?」
「そうではない。失火である」
「ならばその証に忠誠心を示せ。社山(やしろやま)城の天野を討て」
75歳(あるいは85歳)という高齢にもかかわらず出陣を命じられた直平。その負担たるや相当なものであったろう。
進軍の途中、直平は「有玉旗屋の宿」(現在の静岡県浜松市東区有玉南町畑屋の陣
死因については、敵の急襲とも、落馬とも、飯尾氏の妻(田鶴の方)による毒殺ともいわれている。
直平の墓
井伊直平の墓は、川名にある。
従者の大石作左衛門が川名に運び、鎧橋で鎧を脱がせて向山に埋めると、自らも追腹。
また、このとき側室(飯尾淡路守の娘)も殉死したと伝わっている。
直平が死ぬと、井伊家の男は幼い虎松(後の井伊直政)だけとなり、直平の遺言によって虎松元服(15歳)までは庶子家の中野直由が宗主代行(虎松の後見人)をすることになった。
しかし、間もなく直由が討死すると、井伊直虎が女ではありながら実質宗主の代行を務め、同時に虎松の後見人となる。
井伊直虎ならびに直政の活躍については、下記の記事をご参照いただきたい。
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。
自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
【直平の墓碑銘】
正面
渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士覺儀
右側面
點眼偈
憶昔星隕幡谷里
到今士庶叫蒼天
渓雲漸霽西山月
遠顕祖光輝万年
背面
井伊共保公十三代遠江守直平公行年八十五
永禄六亥九月十八日出陣於八社山而俄於于
有玉□□谷薨去矣時従者神主屋舗作左衛門
竊負来□川名村而営辨葬儀導師渓雲寺二世
梅嶽春和尚也今玆十四世一道喝座元告官蒙
命再奉修造幽宮者也
奥山積翠軒龍水謹書
左側面
永禄癸亥九月十八日逝
井伊直平の菩提寺は川名の福満寺で、大檀那・次郎法師(井伊直虎)は梵鐘を寄進している。その銘文は、
大檀那 次郎法師
願主 瀬戸四郎右衛門
(中略)
永禄九丙午年霜月吉日 鋳之