永禄12年(1569年)8月3日は徳川家康が商人の瀬戸方久に「瀬戸」の苗字を授けた日。
「いったい誰なの?」
そう思われる人も多いかもしれないが、2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』でムロツヨシさんが演じていた役と言えば頭に思い浮かぶ方もいらっしゃるだろうか。
当初は物乞いのような立場。
それがいつしか商人として大成し、徳川家康に取り入る先見の明も持ち合わせていたが、どうにもユーモラスな存在だっただけに「彼は実在したのか?」という疑問をお持ちだった方もいらっしゃるかもしれない。
戦国武将とは切っても切れない関係にあった商人。
瀬戸方久の生涯を振り返ってみよう。

瀬戸方久/国立国会図書館蔵
桶狭間を機に武士から商家へ転身をはかる
まず瀬戸方久は実在したのか?
という根本的な問題であるが、これは各種の史料から存在が読み取れる上に、井伊直虎とも深い関わりがあり、実際、ドラマでは欠かせない重要な役になっていた。
方久の生年は一説によると1525年であり、直虎(1535年)よりも10歳年上となる。
幼い頃のエピソードは確認できず、その存在が明らかになるのは直虎の父である井伊直盛と年貢の徴収について残された史料から。
更に、その名が大きく取り上げられるのは1560年に【桶狭間の戦い】が起きてからであった。

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
もともと瀬戸方久は、瀬戸村に住む松井一族の武士であったと言い、井伊家宗主が直盛の時代には「井伊谷七人衆」にも名を連ねていた「郷士」(土豪)であった。
それが桶狭間の敗北によって家勢は傾き、ついには商人への転身を画策。
名主かつ銭主(金貸し)となって、新国主・今川氏真に巧みに取り入ると自身の所領も安堵され、商家としての道を歩むようになった。
借金のカタに瀬戸村を手放した!?
井伊家宗主から見れば、配下の者が商人になったワケである。
この時代、商家(金貸し)なのか武士なのか、その身分が曖昧な存在の者たちは他の大名家でも見られ、彼らは互いに利用しあっていたが、井伊家と瀬戸方久も同様の関係であったと思われる。
方久には商才があったのだろう。
次郎法師(井伊直虎)が地頭職に就いて領主となったとき、井伊谷の南東にある瀬戸村を譲られている(後に徳川家康から発せられた安堵状にもそれを含んだ表現がある)。

イラスト・富永商太
このとき初めて方久は、武士を捨て瀬戸村の名主かつ銭主・瀬戸方久になったとする見方もできる。
実際は、以前から高利貸し業を始めており、井伊家も多額の借金をしていた。
ゆえに瀬戸村は「与えた」というより、「担保に入れていた瀬戸村を借金の肩代わりで渡した」という表現の方が正しいのかもしれない。
この時代、祠堂銭(しどうせん)などを保有する寺院や、年貢収入等を持つ武士や名主は、米や銭を高利で貸し付ける銭主も担っていた。
そこで返済が出来ない債務者(「借主」「負人」という)からは、担保の土地を取得していたのである。
しかし、高利貸しとて、確実に大儲けのできる商売ではない。
債務者は、借金の帳消しである「徳政令」を求めて徳政一揆をしばしば起こし、そうなると銭主側が大きな被害を被ることもあった。
氏真が井伊谷の徳政令を強行したワケ
永禄9年(1566年)のことである。
井伊直虎の上級権力者である今川氏真が、井伊領に「徳政令」を出す旨の指示を発した。

今川氏真/wikipediaより引用
これを証する判物は現存していないが、今川方の関越氏経(関口氏経)が井伊直虎宛に出した書状から、「徳政令」発行の要請があったことが分かる。
直虎は、これに反対した。
そもそも、今川氏はなぜ井伊谷に「徳政令」の命令を下したのか?
考えられる理由は以下の通りである。
①井伊領の領民に新城を築かせたいが、負担が大きいので、まずは現在の借金を帳消しにしておく
②井伊領の与力(今川氏から井伊氏に付けられた今川家臣)の借金を帳消しにしたい
要は「領民(農民)のため」という意識は薄く、氏真の防御・権力基盤を強力にしようというものであり、井伊家が受け入れがたいのは当然であった。
おまけにこの背景には、瀬戸方久という新興勢力の台頭を快く思わなかった祝田禰宜も関わっており、彼は領民を煽って「領民のための徳政令」を直虎に迫ったのである。
徳政令に反対するのは、井伊直虎と、金の貸し手でもある瀬戸方久。
一方、推進派は今川氏真と祝田禰宜、さらに井伊家の権力基盤を虎視眈々と狙っていた小野政次。
両者の主張は拮抗しつつも、次第に直虎と方久はこれに抗うことができず、ついに直虎は地頭職を解任され、永禄11年(1568)11月9日、「徳政令」は施行された。
同時に家老の小野政次が井伊谷城主に就いた。
瀬戸方久が商家たる所以は、この先の対応であろう――。
家康の遠江侵攻 いち早く協力を申し出る
徳政令の実施によって、確かに瀬戸方久損害を被った。
しかし方久は、領主が井伊氏であろうが小野氏になろうが、自身の所領は上級権力者の今川氏真から安堵されている。
商売を続けられれば何も問題ない───と思いきや、このとき事態が一変する。
永禄11年(1568年)12月、徳川家康が遠江国へ侵攻してきたのだ。
もたついている暇はない。
瀬戸方休は、賭けに出た。
方久は家康の侵攻に際し、徳川軍が地元の都田川を渡るとき、渡河点(浅瀬)を教え、さらに家宝の刀(銘「千寿丸重船」)を献上したのである。

家宝の刀を徳川家康に献上する瀬戸方久(方休)/国立国会図書館蔵
彼が武士ではなく商家ならではなのだろう。
家康は方久の対応をいたく気に入り、「瀬戸」の苗字と「御證文」を授けたという。
それが以下の「徳川家康安堵状」である。
ポイント
於井伊谷所々買得地之事
一上都田只尾半名 一下都田十郎兵衛半分(永地也)
一赤佐次郎左衛門尉名五分一 一九郎右衛門尉名
一祝田十郎名 一同又三郎名三ケ一分
一右近左近名 一左近七半分
一禰宜敷銭地 一瀬戸平右衛門尉名
已上
右条々、如前々領掌不可有相違、并千寿院・同重力ニ借預候任一筆
永禄拾弐己巳年 八月三日
家康
瀬戸方久
豪商へと成長を果たす――まさしくそのときに
かくして井伊家の政商とも言える存在であった瀬戸方久は、徳川家康に保護され豪商へと成長を果たす――と思われたその途中で亡くなってしまう。
死期は、永禄年間(1558~1570年)初期に始まった方広寺三重塔が「二重まで建てられた頃」であっただろうと推測。
原文は記事末に掲載させていただくが『奥山家古代記』や『東海之名刹方廣寺』にその記述が残されている。
実際、1570年以降の瀬戸方久に関する史料は無い。
家康に認められ、まさに「これから」という絶頂期に絶命したのであった。

方広寺の三重塔(瀬戸方休と堀尾室の建てた三重塔は焼失し、現在の三重塔は山口玄洞が再建したものである)
以下の写真は、元禄年間(1688-1704年)に曾孫が建てた方久夫妻の供養塔である。

瀬戸氏宅(瀬戸方久屋敷跡)の供養塔
墓石に記された文字は「曾祖 遠峯方久祖月嶺方心/曾祖妣 松渓貞壽媽居林芳桂 塚」。
現在は瀬戸方休の後裔が供養しておられる。
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※瀬戸方久の死が記されたと思しき史料
「三重ノ塔ハ永禄ノ始、瀬戸方久居士施主、二重迄建立ノ処死去故、三十年の後、堀尾帯刀婦人、志ヲ続テ三重九輪成就ス。」(『奥山家古代記』)
「永禄年中方久居士三重寶塔を建てんとして二層に及び俄然物故し、其の志を嗣ぐものがなかつた、然るに寶暦年中堀尾某深く願主の志を憐み、淨資を喜捨して遂に落成し、佛舎利を安置せしも、明治初年火災の爲燒失。大正十一年八月、故間宮英宗猊下發願の下に、故山口玄洞氏淨財を投じて建立、同十二年八月竣功、朱楹碧櫺中空に聳えて居る。」(『東海之名刹方廣寺』)




