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【お田鶴の方】
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城を枕に討死伝説
永禄11年(1568年)12月、徳川家康が曳馬城を攻めました。
お田鶴の方は侍女たちとともに籠城、敵が攻めあぐねるほど奮闘したとされます。
黒髪を振り乱し、緋威の鎧を着て、薙刀を持つ――さらには気丈に指揮も執る。
しかし、力戦及ばず、お田鶴の方は侍女と共に討死を遂げたのでした。
戦国話として非常に面白いだけに、これまで伝承が残されてきたと思われますが、いささかおかしい点もあります。
飯尾家は、なぜ徳川に攻められたのか?
飯尾家はむしろ今川から徳川に就こうとしていたのであり、元はと言えば、夫の連龍もそうした動きを咎められて処刑されています。
徳川にとっては、無傷で一つ城を得られるのであり、攻め込む理由が見当たりません。
ゆえに、常識的に考えて、曳馬城へ攻め込んだのは今川ではないのか?という推測が浮上してきます。
飯尾連龍が処刑された後、当然ながら飯尾家は大いに乱れ、その後、飯尾と曳馬城の名は記録から消えてゆきます。
連龍の死後、今川家に滅ぼされたとしてもおかしくはない。
仮に、お田鶴の方が奮戦したのが事実だとすれば、その相手が今川勢でもおかしくなく、むしろ、夫の命を取られた敵として戦う構図の方が整合性も取れると思います。
ただし、曳馬城が記録から消えたのには、もう一つ大きな理由があります。
名前が「引馬=馬を引く=負ける」を連想させるからとして、家康により浜松城と変えられたのです。
後に【三方ヶ原の戦い】や【伊賀越え】の死線をくぐり抜け、家康が一息つくことになる城でした。
そしてお田鶴の方に関する、別の伝承も残されます。
浜松城の側で椿姫観音に祀られる
城を守り、討死してしまったお田鶴の方――そんな彼女を悼むため、遺骸を埋めた場所には「椿」が植えられたといいます。
彼女の別名が「椿姫」とされるのはそのため。
家康の正室である築山殿とは、母同士が義理の姉妹にあたるとも伝わり、それゆえ椿を植えたのは築山殿であるともされています。
この血縁関係はあくまで伝承。
築山殿も血縁関係が不明瞭で、『どうする家康』でも採用されている“瀬名”という名も史実的根拠は甚だ薄い。
ともあれ浜松市には椿姫観音があります。
もしかすると大河ドラマの紀行コーナーに出てくるかもしれません。2023年は大河ドラマ効果もあり、観光で盛り上がりそうですね。
お田鶴の方は、家康が殺した――という伝説も流布しています。
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