永禄11年(1568年)12月12日、今川家と武田家による【薩埵峠の戦い】がありました。
「さったとうげ」と読み、この戦いは、桶狭間で今川義元が斃れた後の同家を知る上でポイントになる戦です。
実際にはろくに戦ってないんですけど……ともかく戦局を見て参りましょう。
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すでに氏真に家督を譲っていた!?
一昔前までの今川と言えば【桶狭間の戦い】が起きた頃まで、当主は今川義元と思われていました。
しかし最近の研究では、もう嫡子の今川氏真(うじざね)に家督を譲っていたという説が有力です。
つまり【桶狭間で当主が殺され、今川家も崩壊】という、なし崩し的な展開ではなかったということになります。
※以下は今川義元・氏真の生涯まとめ記事となります
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また
『今川家が滅びたのは氏真が蹴鞠にハマりすぎたアホだったから』
なんて指摘もあったりしますが、氏真は決して政治・外交・合戦のことを疎かにしていた愚人ではなかったでしょう。
父が亡くなり動揺する家臣団をとりまとめ、領国の支配強化に注力。
経済観念も悪くなく、たしかに祖母・寿桂尼の助力も大きかったですが、無難にこなしていた模様です。
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった
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大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、途中から腹を据えて大名としての仕事に取り組む姿勢が描かれておりましたよね。
ただ、やはり運が悪かったとしかいいようがないのでしょう。
当時、敵対したのが武田信玄と松平元康(徳川家康)のダブルコンボという、もはやいじめレベルだったわけで、彼は彼なりにきちんと情勢を理解して戦おうとしています。
甲相駿三国同盟を破棄した信玄
さて、本題の【薩埵峠の戦い】に参りましょう。
きっかけは、家康が今川家から離反したことでした。
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多くの方がご存知の通り、幼いころ織田家や今川家の人質になってた家康は、義元が生きている間は逆らうことができず、今川家の武将として信長と戦ったこともあります。
しかし目の上のたんこぶがいなくなれば、当然、自分の家を自分で守りたくなるというもの。
そこで信長と清洲同盟を結び、一応は独立した大名として歩んでいたのでした。
一方、これを横から見ていたのが武田信玄。
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そもそも武田・今川・後北条の三家は【甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)】という舌を噛みそうな名前の平和協定を結んでいました。
しかし、その同盟の中で唯一の内陸国である甲斐(現・山梨県)の武田家としては、交易や軍事その他諸々の状況からしてとにかく「海」が欲しい。
そんなタイミングで、織田&徳川からプレッシャーをかけられ、今にも瓦解しそうな今川家がいるのですから、「やばば!早くしないと小僧(家康)に分捕られてしまう!」と考えるのも無理はない話。
というか何が何でも取る気なので「徳川と協力して今川家を潰そうZE!」と家康に書き送る念の入れようでした。
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