関口氏純(関口親永)

関口氏純の居城だった持船城(静岡市駿河区)google mapより引用

今川家

家康の岳父で今川家の重臣~関口氏純は桶狭間の不幸ですべてが変わってしまった

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家康の義父はどうなったのか?

娘の築山殿が三河の有力国衆と結ばれた――。

今川家が西への勢力拡大を狙っている最中にあって、二人の婚姻は、関口氏純にとって悪い話ではなかったでしょう。

しかし、だからこそ、永禄3年(1560年)の【桶狭間の戦い】において今川義元が敗死すると状況が一変してしまいます。

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傾き始めた今川家に見切りをつけ、尾張の織田家に接近する婿の家康。

義元の「元」を捨て、「家康」に改名したのはその過程のことであり、家康の義父である氏純は今川氏真から忠誠心を疑われてしまいます。

その結果、永禄5年(1562年)に駿河で切腹したとされます。

大河『どうする家康』でも、鵜殿長照が討ち死にした後、人質交換を経て、主君の氏真に成敗されたという設定でした。

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しかし現在、切腹説は疑わしいとされています。

なぜなら永禄9年(1566年)まで氏純の動向が文書に残されているのです。

婿である家康は、永禄9年(1566年)までには三河の領国化をほぼ完了させていました。

そうなると、前途ある娘夫妻の未来を見届け、穏やかな最期を迎えられた可能性も出てきます。

娘の築山殿(瀬名)や孫の松平信康が死に追いやられるのは天正7年(1579年)のことですので、おそらくその場面は見ずして亡くなっているのではないでしょうか。

初代将軍の義父なのに、なにかと謎だらけの関口氏純。

最後にいくつか疑問点を挙げておきたいと思います。

まずは、ドラマにおける娘の名前がなぜ「瀬名」なのか?

 

なぜ娘は「関口」ではなく「瀬名」なのか?

関口氏純の兄を瀬名氏俊(せな うじとし)と言います。

今川氏に連なる有力家臣の一つであり、弟である氏純は関口家に婿入りして跡を継ぎました。

にもかかわらず、その娘が「瀬名」というのも妙な話ではありませんか。

父は関口家の当主なのに、なぜ、かつての名字「瀬名」が付けられるのか。

よって最近は「瀬名」という名は否定されることもあります。

ドラマでは、いっそ自由な命名もありかもしれません。

『鎌倉殿の13人』では脚本を書いた三谷幸喜さんが、北条よしときの妹・阿波局に、『ムーミン』のミイから「実衣」と名付けていました。

また、関口氏純の名前そのものも諸説あります。

築山殿の父が「関口刑部大輔」という呼び名であったことは伝わっております。

これも江戸時代から「少輔」と混同されてしまうばかりか、彼の名は諸説ありました。ざっと以下の通り。

義広(よしひろ)
氏広(うじひろ)
親永(ちかなが)
氏縁(うじより)
氏純(うじずみ)

『どうする家康』では現在最も有力視されている「氏純」が採用される一方、Wikipedia等では「親永」とされています。

 

妻は、義元の妹婿か?井伊直平の娘か?

関口氏純の出自で勘違いされやすいのが、妻の出自が「今川義元の妹婿」とされがちなことでしょう。

たしかに氏純は今川家の重臣です。

義元の妹たちは鵜殿長照や北条氏康など、超重要人物のもとへ嫁いでいますので、氏純に嫁入りするのも自然なことのように思えてきます(表を参照)。

もしも義元の妹が関口氏純に嫁いだとなると、娘の築山殿は義元の姪で、氏真のいとこにもなりますが、現在、この考え方は誤伝とされています。

4人いた義元の妹が別人に嫁いでいることが判明しているのです。

さらに関口氏純は『おんな城主 直虎』でも注目された井伊家との関係が指摘されることもあります。

 

井伊直平の娘が正室だった?

江戸時代の寛永年間に記された『寛政重修諸家譜』には、こう記されています。

井伊直平の娘が今川義元の義妹となり、関口氏純に嫁いだ。

2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』ではこの説が採用され、築山殿(菜々緒さん)が大きく扱われました。

ただしこのことは『寛政重修諸家譜』以前に記録がないため、誤伝のようです。

それにしても……。

関口氏純の経歴や事績は、なぜこうもややこしいのか?

その理由を考えると以下のような指摘が挙げられそうです。

・今川家には関口刑部大輔家と関口刑部少輔家がある(井伊家と関わりが深いのは関口大輔家であった)

・大名としての今川家が滅んだため、不正確な情報が伝わってしまいやすい

・築山殿は家康の正室であるため、話が大仰になってゆく

・別の側室(西郷局)が産んだ徳川秀忠が跡を継ぎ、なおかつ家康を神格化するため、築山殿の悪女伝説が形成されていった

こうした要素が重なり、事態は複雑になっています。

だからこそフィクションなどでは腕の見せ所でもあり……皆様にとって『どうする家康』の関口氏純はどんな存在だったでしょうか?

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
黒田基樹『家康の正妻築山殿: 悲劇の生涯をたどる』(→amazon
有光友學『今川義元(人物叢書)』(→amazon
小和田哲男『今川義元: 自分の力量を以て国の法度を申付く』(→amazon

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