東本願寺と西本願寺

東本願寺

寺社・一揆

東本願寺と西本願寺が二つに分裂しているのは信長 秀吉 家康のせい?

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秀吉「長男だから君が後継ぎだよね」

これにて一件落着……と思いきや、この話はまだまだ続きます。

信長の死後、天下人となった豊臣秀吉が「おいらに従っているようだし、じゃあ京都に土地を用意してやるよ」と命じたのです。

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これが天正十九年1月19日のことで、こうしてできたのが現在の西本願寺にあたります。

京都に戻れると喜んだ顕如パパですが、これで満足したのでしょうか、翌年11月に亡くなります。

すると、秀吉はこれまでの経緯を知ってか知らずか、父ちゃんと反目した長男の教如を浄土真宗の後継者(12代目)に任命してしまうのです。

しかし兄弟の母親で顕如の未亡人・如春尼が弟のほうに肩入れして「違うんです、ホントは准如が継ぐはずなんです!」と申し立て、さらに話がこじれていきます。

しかもこの言い分が通り、翌年、一度は跡を継いだ教如はまた本願寺から追い出されてしまいました。

 

家康「ワシがさらに混乱させてやろう」

しかし、教如は天から完全に見放されはしませんでした。

時が流れ、秀吉も亡くなった関が原直前、教如に寺を寄進しようという人物が現れました。

時期的に何となく予想がつくかもしれませんが、徳川家康です。

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本願寺→浄土真宗=一向宗徒の力を削ぐべくわざと教如に寄進したとか、いやいやその前から分裂してたんだから対して変わらんだろとかいろいろ言われていますが、例によって家康の真意がどこにあったかはわかりません。

このとき教如に寄進されたお寺は、准如の継いだお寺の東側にあったため、後々東本願寺と呼ばれるようになり、教如と准如兄弟はそれぞれ12代目となりました。

そしてそのまま統合せず現代に至っているというわけです。

お兄さんのほうが「大谷派」、弟さんのほうが「本願寺派」となっています。

京都へ旅行に出かけると、多くの方が『どうして東と西に分かれているんだろう?』という疑問を抱き、そして曖昧なまま別のお寺なんかに足を運んでしまいがち。

そんなときは信長・秀吉・家康との駆け引きがあったことを教えてあげると喜ばれるかもしれません。

ただし、あまり語り過ぎると引かれる可能性もありますのでご注意を。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会『戦国僧侶列伝(星海社新書)』(→amazon
東本願寺/Wikipedia
西本願寺/Wikipedia

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