こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【東本願寺と西本願寺】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
秀吉「長男だから君が後継ぎだよね」
これにて一件落着……と思いきや、この話はまだまだ続きます。
信長の死後、天下人となった豊臣秀吉が「おいらに従っているようだし、じゃあ京都に土地を用意してやるよ」と命じたのです。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
これが天正十九年1月19日のことで、こうしてできたのが現在の西本願寺にあたります。
京都に戻れると喜んだ顕如パパですが、これで満足したのでしょうか、翌年11月に亡くなります。
すると、秀吉はこれまでの経緯を知ってか知らずか、父ちゃんと反目した長男の教如を浄土真宗の後継者(12代目)に任命してしまうのです。
しかし兄弟の母親で顕如の未亡人・如春尼が弟のほうに肩入れして「違うんです、ホントは准如が継ぐはずなんです!」と申し立て、さらに話がこじれていきます。
しかもこの言い分が通り、翌年、一度は跡を継いだ教如はまた本願寺から追い出されてしまいました。
家康「ワシがさらに混乱させてやろう」
しかし、教如は天から完全に見放されはしませんでした。
時が流れ、秀吉も亡くなった関が原直前、教如に寺を寄進しようという人物が現れました。
時期的に何となく予想がつくかもしれませんが、徳川家康です。
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
本願寺→浄土真宗=一向宗徒の力を削ぐべくわざと教如に寄進したとか、いやいやその前から分裂してたんだから対して変わらんだろとかいろいろ言われていますが、例によって家康の真意がどこにあったかはわかりません。
このとき教如に寄進されたお寺は、准如の継いだお寺の東側にあったため、後々東本願寺と呼ばれるようになり、教如と准如兄弟はそれぞれ12代目となりました。
そしてそのまま統合せず現代に至っているというわけです。
お兄さんのほうが「大谷派」、弟さんのほうが「本願寺派」となっています。
京都へ旅行に出かけると、多くの方が『どうして東と西に分かれているんだろう?』という疑問を抱き、そして曖昧なまま別のお寺なんかに足を運んでしまいがち。
そんなときは信長・秀吉・家康との駆け引きがあったことを教えてあげると喜ばれるかもしれません。
ただし、あまり語り過ぎると引かれる可能性もありますのでご注意を。
あわせて読みたい関連記事
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
なぜ信長の弟・織田信勝(信行)は兄に誅殺されたのか?最後は勝家にも見限られ
続きを見る
100年にわたり戦国大名を排除し続けた加賀一向一揆~柴田勝家と対峙した結果は?
続きを見る
徳川家臣団を危機に追い込んだ三河一向一揆~家康はどう対処した?
続きを見る
なぜ荒木村重は信長を裏切ったのか?妻子を無惨に処刑され道糞と蔑まれた生涯52年
続きを見る
信長考案の鉄甲船~毛利・村上水軍を破ったのは鉄に覆われた巨大船だったのか?
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会『戦国僧侶列伝(星海社新書)』(→amazon)
東本願寺/Wikipedia
西本願寺/Wikipedia