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武士は「馬に乗った縄文人」だったのか 文春新書『「馬」が動かした日本史』より

文春新書『「馬」が動かした日本史』(→amazon)の著者、蒲池明弘と申します。

この本の主要テーマのひとつ「馬と武士をめぐる歴史」に焦点をあてた特別記事を「武将ジャパン」読者の皆さまにお届けしたいと思います。

「馬の日本史」は「武士の歴史」とコインの裏表のような関係にあるのです。

 

有名な武将は東日本に多い

平安時代から戦国時代まで、全国的な知名度のある武将の多くが東日本を勢力基盤にしていたことはご存じのとおりです。

関東に武士政権を築いた源頼朝徳川家康

平安時代、関東に独立国家を建てようとしたと伝わる平将門

東北で黄金文化を開花させた奥州藤原氏

最強の騎馬軍団を誇った武田信玄

伊達政宗今川義元北条早雲(伊勢宗瑞)も忘れるわけにはいきません。

坂東市立図書館そばにある平将門像

京都を中心として、日本列島を東と西に分けると、西日本を基盤とした武将のうち、今も全国的知名度をもつのは毛利氏と島津氏くらいではないでしょうか。

最初の武家政権を築いた平清盛は「源平合戦」によって西日本代表のような印象がありますが、清盛を輩出した一族は伊勢平氏と称され、伊勢国(三重県)に先祖代々の拠点地がありました。

なぜ、有名な武将の本拠地は東日本に偏っているのでしょうか?

諸説あるなかのひとつに「東日本には馬を飼育する牧場が多かったから」という説があります。古代から戦国時代に至るまで、馬の保有頭数は軍事力と密接にかかわっていたからです。

平安時代、朝廷の管理する牧場は、九州南部の日向国(宮崎県、鹿児島県)のほか、信濃国(長野県)、下総国(千葉県北部)、武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)、甲斐国(山梨県)の関東周辺に集中していたことが「延喜式」の記録によってわかります。

馬牧の分布図

平安時代も後半になると、朝廷の権威は失われ、朝廷の牧場も次第にその実態をなくしてゆきます。

朝廷の牧場を管理していた人たちは、それを自分たちの所有として、勢力基盤としたのではないか。それが東国の武士団として成長したのではないか──という説です。

西日本で最も有力な武士団が見えるのは薩摩国ですが、江戸時代、東北北部の南部藩とともに日本の二大産地となっていました。

戦国時代、九州で最強の戦国大名が島津氏であったこともよく知られているとおりで、「馬の日本史」と「武士の歴史」が重なっていることを示しています。

残念ながら、鹿児島県では古代以来の馬の飼育の歴史はとだえてしまいましたが、宮崎県には放牧地に野飼いにされた馬が生息しており、御崎馬として観光客にも親しまれています。

宮崎県串間市に生息する御崎馬

 

南部氏と武田信玄は遠い親戚

馬の産地は東日本に多いのですが、その中でも、平安時代から近現代に至るまで、東北地方の北部(青森県・岩手県)は、日本の馬産地の最高峰とされてきました。

江戸時代の藩でいえば、日本海寄りの津軽藩ではなく南部藩。現代の地図のうえでは、岩手県北部と青森県の太平洋側にあたります。

この地方で産する馬は「南部馬」の名で知られていました。岩手県北部から青森県の太平洋側を支配した南部氏の領国が、南部地方と呼ばれることに由来します。大名の名字が馬のブランドとなっているのです。

南部氏が江戸幕府に提出した系図によると、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした「奥州合戦」のとき、甲斐国(山梨県)にいた南部氏も従軍し手柄をあげたので、東北北部に所領を賜ったという話になっています。

ただ、近年の研究では、北条氏が幕府の実権を得たあと、その代官のような資格で東北北部に関与することになったとも見られており、こちらが真相に近いと思います。

南部師行像(八戸市博物館)

南部という名字は、甲斐国巨摩郡南部郷(現在の山梨県南部町)に発祥します。いわゆる「甲斐源氏」の一族で、武田信玄の武田氏や小笠原氏とは血縁関係にあります。

南部氏の歴史的背景は明瞭ではないものの、甲斐国にいる時から飯野牧(山梨県身延町など)を支配し、馬の飼育に関与していたと見る論者が多いようです。

武田信玄の「最強の騎馬軍団」については、史実であることを示す史料が乏しいという批判もあるようですが、甲斐国が全国有数の馬産地であったことについては多くの傍証があります。

たとえば、「日本書紀」の雄略天皇のくだりには、「甲斐の黒駒」として知られる名馬伝説が記録されています。雄略天皇は古墳時代中期の五世紀後半ごろの在位が想定されていますが、「甲斐の黒駒」はやがて、聖徳太子の愛馬の名前として定着し、馬に乗って富士山の上を飛んだというような話まで語られています。

そういえば、聖徳太子の本当の名前は厩戸(うまやど)皇子。馬にかかわる朝廷の役所のそばで出産したことに由来する名前であると、「日本書紀」は説明していますが、馬にかかわる気配が濃厚な人物なのです。

伝説の真偽はともかく「甲斐の黒駒」の伝説からは、古墳時代から甲斐国が有名な馬産地であったことがうかがえます。

ところで、文春新書『「馬」が動かした日本史』の原稿の作成時、ワープロで「甲斐」と書こうとして、「飼い」と変換されることがありました。

「岩波 古語辞典」によると「飼ひ(飼い)」の本来の意味は「食物や水をあてがう」あるいは、動物の餌のこと。甲斐国とは「飼いの国」すなわち馬の餌となる草の豊かな「馬飼いの国」なのかもしれません。

 

馬の文化のルーツは河内国

南部馬とともに知られる南部氏は、古代からの馬産地であった甲斐国から移住した人たちであったようです。

南部氏をふくむ「甲斐源氏」は、武士の名門中の名門である「河内源氏」の分流であり、南部氏は河内源氏二代目・頼義の三男義光(新羅三郎)にはじまる系譜に属しています。

源頼信を始祖とする河内源氏に注目する必要があるのは、河内国(大阪府南東部)が「馬の日本史」で最も重要な場所のひとつであるからです。

古墳時代中期(五世紀ごろ)、日本列島で馬の飼育が本格的にはじまるとき、最初の中心的な産地が河内国にあったことは考古学のデータによって判明しています。大阪府四條畷市をはじめとする河内地方には、古墳時代の馬の骨、歯などが突出して多く見つかっており、古代の馬産地であったことが確実視されています。

羽曳野市は古墳時代の河内国の中心的な地域。世界遺産に登録された古市古墳群によって知られていますが、古市古墳群で最大の応神陵古墳から直線距離で四キロメートルほど離れたところに、源頼信、頼義、義家(八幡太郎)の墓があって、河内源氏三代の墓として史跡になっています。

源義家の墓

鎌倉幕府を創始した源頼朝はこの河内源氏の直系子孫。頼朝の「頼」の字は、河内源氏の初代、頼信に由来します。

室町時代の将軍家である足利氏も、河内源氏の流れであることはご承知のとおりです。

河内源氏のルーツの地である羽曳野市は、日本史を考えるうえで、とても面白い土地です。世界遺産の巨大古墳群が古代の繁栄を雄弁に物語っていますが、この繁栄に馬産地としての歴史が関係しているのではないかという議論を、本書『「馬」が動かした日本史』のなかで展開しています。

応神陵古墳のそばに鎮座する誉田八幡宮には、国宝に指定された馬具が伝わっています。近くの古墳から出土したもので、馬にかかわる経済的な豊かさが古墳時代のこの地にあったことを示しています。

 

火山列島と武士の文化、馬の文化

河内国は「馬の日本史」のはじまりの地と言ってもいいと思うのですが、その後の歴史において、主要な馬産地になることはありませんでした。

日本列島を代表する馬産地となったのは、九州南部、関東、東北。実はこの三つの地域には共通点があります。

いずれも火山の多いところで、火山的な地質が目立つ地方であることです。『「馬」が動かした日本史』に掲載したこの地図を見ていただければ、それは明らかです。

黒ボク土の分布図

灰色の部分は「黒ボク土」という土壌、▲は活火山です。馬の飼育という産業は古代から近代に至るまで、火山地帯に広がる黒ボク土の地方で営まれてきました。

黒ボク土という土壌は、日本列島の三割を占める代表的な土壌ですが、戦後、化学肥料が普及するまで、農作物を育てにくい不良土でした。農作物だけでなく、樹木にとっても厳しい生育条件であるので、草地の目立つ原野が広がっていたのです。馬の放牧地になった背景には、このような地質学的な条件があります。

地図で示しているとおり、知名度のある武将は、黒ボク地帯を勢力基盤としています。それは黒ボク地帯が馬産地であったことと直結すると考えられます。

黒ボク土の視点に立つと、日本列島は大きく二つに分かれていることがわかります。

火山帯と重なり、黒ボク土が密集するエリア(九州南部と東日本)。黒ボク土がまばらにしか見えないエリア(九州北部、瀬戸内地方、関西など)。

前者では縄文文化と武士の文化が栄え、後者は弥生文化から奈良、平安時代へとつづく朝廷と貴族の歴史の舞台となりました。

 

武士の誕生と「馬の日本史」

『「馬」が動かした日本史』の裏テーマといいますか、本の全体を貫くテーマのひとつは「武士の誕生」をめぐる謎への探究です。

武士の誕生をめぐる議論では、少し前までは、地方の有力者が自衛と勢力拡大のために武装を強化したという「地方発祥説」が教科書的な定説になっていました。

これに対する新説として、朝廷や摂関家に仕える武技に秀でた下級貴族が軍事の専門家となったという「都発祥説」があります(髙橋昌明『武士の日本史』など)。

二つとも律令国家が制度疲労を起こす平安時代の中ごろに焦点をあてた議論です。

これに対して、一部の考古学者の間で、古墳時代の武人は甲冑を着て馬に乗り、弓で戦っているのだから、軍事技術の上ではのちの時代の武士と本質的な違いはないとする議論もあります。

旧来の武士論が政治・社会状況を踏まえた議論だとすると、こちらは武士の技術論だといえます。

学術的な議論はさておき、武士の基本である「弓馬の道」は、馬の普及によって定着するのだから、古墳時代の五世紀に注目するのは意味のある視点だと思います。

 

武士の文化は縄文系の文化

馬の歴史の取材をすすめ、原稿を書いているあいだ、ひとつの仮説的なアイデアが私のなかで生じ、次第に確信めいたものに変わってきました。

それは「武士とは、縄文系の文化の正統な継承者ではないか?」ということです。

そう考える第一の根拠は、先の地図で有力な武士たちの拠点地として提示した「黒ボク地帯」(東日本と九州南部)が、ほぼそのまま縄文文化の栄えたエリアと重なる点です。同じことを裏から言えば、武士文化のエリアは水田稲作の栄えた弥生文化圏ではないということです。

二番目の根拠は、縄文文化とは狩猟採集の文化であり、シカ、イノシシを弓矢で狩ることが日々の営みになっていたことです。日本列島における弓矢の伝統は、確実に縄文時代にさかのぼります。

縄文時代の弓

現代の弓道で使われる弓は、アーチェリーをはじめ諸外国の弓と比較して、特段に長大ですが、すでに縄文時代の弓には二メートル級のものもあり、「長弓」に分類されます。五世紀になるまで、日本列島に馬がいなかったことが、こうした「長弓」の伝統と関係すると指摘されています。

「長弓」は、馬上で扱うには不便ですが、飛距離がでるというメリットがあります。戦闘であれ、狩猟であれ、馬を使えば対象物に接近できるので、短い弓のほうが好まれるといえます。

武士の歴史のうえで面白いのは、縄文時代以来の「長弓」の伝統が、古墳時代から武士の時代を経て、現代の弓道にまで継承されていることです。

武士の歴史を図式的に示すと、こうなるのではないでしょうか。

【縄文時代の弓矢+古墳時代の馬】

【武士の誕生】

もちろん、これはひとつの仮説的な見通しであり、『「馬」が動かした日本史』のなかで声高に主張しているわけではありません。

自信をもって書くには、まだまだデータ不足というのが正直なところです。

ただ、この仮説を支持するいくつかの状況証拠を本のなかで紹介しています。

武士とは何か──。

この永遠のテーマを考えるうえでの素材のひとつとして、拙著『「馬」が動かした日本史(文春新書)』(→amazon)がお役に立てればと考えています。

文:蒲池明弘

『「馬」が動かした日本史(文春新書)』著:蒲池明弘(→amazon

 



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