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信長、秀吉、家康─「馬」から見る3人の個性~最も重視したのは家康だった!?

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三英傑と馬
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織田信長に仕えるようになってしばらくしたころ、秀吉はその働きぶりが評価され、この次、美濃国に出兵するときは馬に乗って良いと許される。秀吉は馬を持っていなかったので、母方の伯父である焼き物商人の家に行って、馬を貸してくれと頼んだ。

ところが、この伯父は秀吉の武家奉公を快く思っていなかったようで、「お前のような者が親類にいるのは迷惑」と言って馬を貸そうとしない。それで、秀吉は姉の嫁ぎ先(義兄)から馬を借り、馬を引く従者もいなかったので、この人にその役回りをしてもらったという。

この義兄はのちに豊臣家の二代目の関白となる豊臣秀次の父親。史実としての保証はない逸話だが、たぶんこんなことがあったのだろうなあと思わせる。少なくとも、馬に乗って戦陣に赴くことが、一人前の武将のステイタスだったことが実感できる。

一頭の馬を借りるのにも苦労した秀吉が、おびただしい数の馬を朝鮮半島に渡らせ、中国の明みんを巻き込んだ大戦争をくりひろげるのだから、急展開の人生だ。

ごく短い期間とはいえ、秀吉軍が朝鮮半島の一部を軍事支配した理由については、

①当時の日本は戦国時代で戦闘になれていた

②大量の鉄砲が日本側にあった

③朝鮮王朝は文人支配の政治で武人の地位が低かった

ことなどが指摘されているが、本稿の視点からは、朝鮮半島には馬が乏しかったという事情を加えることができる。

戦国時代における日本と朝鮮半島の馬の頭数はわからないが、序章で述べたとおり、近代の統計では、日本のほうが四十倍多いのだから、大まかな見当はつく。

馬の保有数が軍事力の根幹であることは、この時代にも当てはまる。古代から近代に至るまで、日本が朝鮮半島に対して有していた軍事的な優位は、馬の保有数によって説明できる部分が多いのではないだろうか。

 

徳川家康の馬飼い理論

徳川家康は信長、秀吉と同じく、現在の愛知県の出身だ。

しかし、信長、秀吉が名古屋市近辺(尾張国)で生まれ育ったのに対し、家康は岡崎市(三河国)の生まれで、豊田市の山あいにある松まつだいら平郷が一族発祥の地である。

尾張国と三河国の風土の違いはよく話題になるが、尾張国に有名な馬産地はなく、三河国にはあった。三河馬(三州馬)という種類の馬がいて、馬市も開かれていたが、江戸時代の末期には衰退していたようだ。明治時代になって軍馬の育成がもてはやされたころ、馬産地の再興が図られている(堀江正臣編『三河馬盛衰記』)。

愛知県新城しんしろ市の山寺である鳳来寺ほうらいじには、家康の母が祈願して、家康をさずかったという伝説がある。それによって江戸時代、手厚く保護されたが、奈良時代よりも前からの歴史を有している。この寺のある鳳来寺山は、千五百万年ほど前に活動した太古の火山としても知られる。

河内源氏のルーツの地にある二上山と同じ時期に活動しており、「二上火山帯」の最も東にある死火山だ。三河国には火山的地質があり、馬産地の背景となっていることがわかる。

家康については、馬の飼育をめぐる逸話が伝わっている。

京都の伏見にいたころだというので、秀吉の在世時かその死から間もないころ。家康の屋敷の馬屋はほかの大名のものに比べると、目立って貧相だった。

その馬屋が破損したので、この際、立派な馬屋に建て直そうという話が家臣の間で持ち上がったのだが、家康は雨漏りを防ぎ、壁の崩れを補修するだけで良い、それ以外、手を付けるに及ばないと命じたのだ。

そのときの家康の言葉はだいたいこんな内容だったと伝わっている。

「このあたりの大名屋敷の馬屋を見ると、実に清潔で、夏は蚊遣火をたき、冬は布団をきせ、大豆、糠をたくさん与えるから、よく太り、色つやも良い。そのような飼い方では、二、三日、野陣につなぐだけで、病気になってしまう。屋外とさして変わらないような、粗末な馬屋で飼っているわが家の馬とぜいたくな馬屋で飼っている馬、どちらが戦場で役に立つか考えてみるがよい」(『徳川実紀』所収『厩馬新論』/「東照宮御実紀附録巻二十」)

馬はもともとユーラシア大陸の乾燥地帯に適応した動物だ。

雨の日が多く、季節ごとの温度差も大きい日本は、馬にとってけして快適な環境ではない。その自然環境に負けない、強い体質であることが、良い馬に求められる最初の条件である──。

武士と馬の関係にとって最も大切なことをこの逸話は物語っている。教訓的な要素もあり、史実かどうかはわからないが、家康がこうした考えを持っていたことは十分にありうることだ。

 

日本最大級の牧場が千葉県に出現した

一定の面積の土地における経済活動で、どれだけの収益をあげることができるか。

そうした「土地生産性」の発想は、人間の歴史とともに古い。流行はやらない食堂の経営者が店を閉じて、その場所でコンビニ店のオーナーに転身すれば、「土地生産性」は向上する。

江戸時代、日本国内の馬の飼育頭数は百万頭を超えていた。古代にあったような希少価値は完全に失われたことになる。物流や農業における利用など、馬が活躍する場面は増えていったとしても、馬の産地に巨万の富がもたらされるような時代は遠く過ぎ去った。

古代からの馬産地であった関東でも、江戸時代の馬牧の記録はあまり見えなくなる。

江戸の近郊では、馬を飼うより、コメや野菜を作ったほうが儲かったからだろう。「土地生産性」をめぐるわかりやすい話だ。

その例外が、江戸幕府が千葉県北部に設置した巨大な放牧地である。

左ページの地図4は、幕府直営牧場の領域を示している。江戸時代半ばの地図をもとに、千葉県が復元したものだが、下総国(千葉県北部)の五分の一くらいを放牧地が占めている印象で、にわかに信じられないような広さだ。

千葉県の幕府牧場

下総地方の西のほうに小金こがね牧、東のほうに佐倉牧があり、それぞれ五区画、七区画に分かれていた。牛も飼育されるなど、少し性格は異なるが、県南部にも嶺岡みねおか牧という幕府の牧があった。

正確な統計がないのではっきりしないが、幕末期の飼育頭数は小金牧千頭、佐倉牧三千頭、嶺岡牧千頭と推計されている(大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』)。

一か所あたりの飼育頭数でいえば、佐倉牧はこの時期、国内最大級の牧場である。ただ、東北、九州とは違って、江戸時代の千葉県には民間の馬牧がほとんど見えないので、純粋の馬産地とは言いがたいところがある。

現在、幕府馬牧の広大な跡地には、新京成線、東武野田線が走っているが、駅名を見ると、三咲駅、五香駅をはじめ、数字のついた駅名が多いことに気づく。明治時代、幕府の広大な牧が廃止され、農業地にする開墾を始めたとき、開墾の時期の順番で、数字の地名が十三まで付けられたからだ。

初富(はつとみ=鎌ケ谷市)
二和(ふたわ=船橋市)
三咲(みさき=船橋市)
豊四季(とよしき=柏市)
五香(ごこう=松戸市)
六実(むつみ=松戸市)
七栄(ななえ=富里市)
八街(やちまた=八街市)
九美上(くみあげ=香取市)
十倉(とくら=富里市)
十余一(とよいち=白井市)
十余二(とよふた=柏市)
十余三(とよみ=成田市、多古町)

十三の数字地名が物語っているのは、馬が群れているだけで、地名のない原野がこれほど広がっていたことだ。

歌川広重の連作浮世絵「富士三十六景」に、「下総小金原」という牧の風景を描いた一作がある。

富士三十六景・下総小金原

馬の半身を前景に配した奇抜な構図で、遠方に小さな富士山が見える。

広大な原野に生えている樹木はわずか二本。実景の正確な描写ではないとしても、下総台地にはこうした木の少ない草原が広がっていたのだろう。

江戸から成田や水戸に向かう街道に沿って、馬牧があったので、江戸時代の旅行記や文学作品にも題材を提供している。

若草に背中をこする野馬(のうま)かな──。

小林一茶が詠んだのは、のどかな牧の情景だ。

※本稿の内容をより詳しくご覧いただきたい方は『「馬」が動かした日本史(文春新書)』(→amazon)をご確認ください。Kindle版ならスマホですぐ読めます

文:蒲池明弘

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