宮本武蔵

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宮本武蔵の六十余戦無敗ってどこまでガチ?62年の生涯で水墨画家も

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巌流島

巌流島は正式名称を舟島といい、当時は船の難所として知られていました。

秀吉が船でここを通るとき座礁したところ、毛利家に助けられたという逸話があるくらいですから、相当のものだったでしょう(おそらく、毛利元就の孫である毛利秀元が、秀吉に気に入られた時のことだと思われます)。

そんなところでわざわざ決闘をするあたり、物好きというかなんというか……。

小次郎との対決にあたって武蔵は「わざと遅刻してイライラさせて勝利した」というエピソードが有名ですが、実際にはそんなことはなかったという説が最近では出ていますね。

武蔵の養子である宮本伊織が建立した顕彰碑【小倉碑文】に同時刻に立っていたことが記されているのです。

ただし、そこには「佐々木小次郎」の名もなく、チョットややこしいことになっており、詳しくは以下の記事をご覧ください。

巌流島の戦いでの遅刻も「たけぞう」の名も吉川英治が広めた話なり

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次に武蔵の動きがハッキリするのは、大坂の陣です。

戦国随一の暴れん坊・水野勝成――その息子である水野勝俊の配下となって活躍しました。

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その後、水野家の家臣から武蔵の養子になった人もいるので、家全体と親密な付き合いがあったようです。

これにしたって、剣の腕だけでいきなり大名の跡継ぎにつけられる……というのは、ちょっと考えにくいですよね。

まあ、勝成の気性からすると「お前強いから気に入ったわ」というのもありえますけれども。

ちなみに勝俊はものすごくいい人なんですが、父親も部下もこんな感じでインパクトが強すぎるため、影が薄くなってしまっています。カワイソス(´・ω・`)

 

姫路や尾張にお呼ばれしたかと思ったら

その後は大名の間で名が知れ渡ったものか。

姫路城主・本多忠刻(本多忠勝の孫)の下で町割・作庭を行ったり。

尾張藩の家老に弟子を紹介してやったり。

訪れた先の大名に養子を出仕させたり……ある意味かいがいしく働いております。

顔の広さとフットワークの軽さ、知名度がかなり上がっていたことがうかがえますね。

その後、一度江戸に出てきていたようですが、何をしたのかは具体的にわかっていません。

吉原の遊郭を作った人の記録に「島原の乱に行く前は江戸にいたんだってよ」(意訳)という記録があるだけなので、何か目的があって江戸に来たわけではなかったのかもしれません。

吉原のお偉いさんの一人が武蔵の弟子だったらしいので、それに関連してのことでしょう。

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島原の乱では、養子の出仕先である小笠原忠真の下について、討伐軍に加わりました。

忠真の甥・長次の後見役ということですから、武働きよりも戦略・戦況に関するアドバイザーとしてつけられたものでしょうか。

戦後、「一揆軍の投石で怪我しちゃいました」(意訳)という手紙を有馬家に送っているので、完全に後方にいたわけでもなさそうですが。

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