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【丁髷・月代】
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一本一本抜きました それも木製の毛抜で
ハゲた月代の部分をどう整えていたか?
刀で剃った――。
ブブー!
専用の剃刀があった――。
ブブッ、ブブー!
答えはなんと、木製の毛抜で一本一本抜いたのです!
なんという恐ろしい所業。
これは江戸初期の風物を記した『慶長見聞集』にも、その様子が「黒血流れて物すさまじ」と記されています。
昔の武士は毎日激痛に耐え、血だらけになりながら頭頂の毛を抜いていたのです……。そりゃ切腹なんて凄まじい文化も生まれてくるワケですよね。
ただ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた頃からはカミソリで優美な形に整えられるようになり、日本男子達もやっと血だらけのゾンビ状態から解放されます。
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こうした苦行が背景にあったからでしょうか。
合戦を前提とした月代という髪型は、「いつでも主君のために戦える!」という意思表示でもありました。
月代を剃らないということは主君をないがしろにし、自分は武士ではないと言っているようなものだったのです。
それこそが、江戸時代にも丁髷(ちょんまげ)と月代が続いた理由であります。
一銭剃が庶民の間でも大流行
江戸時代は徳川幕府により260年も平和な世が続きました。
ただ、いくら平和だったとはいえ、社会の根本システムは武力による封建体制。
侍は弱体化したとの声に抗うように、彼らは常に帯刀し、日々文武両道に励んで月代を剃り、武士道精神を重んじていたのです。
いつでも戦うぞ!
そんな心構えが残っていた……と言いたいところですが、幕府が近代式陸軍の創設を試みたときは、殺し合いを忌避する傾向もあったとか。
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ただし、乱暴な志士たちによる攘夷は以前から恐れられていたようで、日本刀を相手には、短銃では間に合わないと認識されたりもしました。
ペリーをはじめ、日本に来航した欧米列強の面々にとって、武士の姿は、さぞかし威圧的な姿だったでしょう。
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彼らの目には、まさに「気が満ちた」東洋の神秘に映ったかもしれません。
なお、こうした月代は戦国末期(16世紀末)から庶民の間でも行われるようになり、「一銭剃(いっせんぞり)」と呼ばれる新たな職業も生まれました。
江戸時代になると、大きな橋のたもとに床屋ができ、月代部分を剃っていたのです。
今で言う駅の1,000円カットみたいなものですかね。
さほどに生活に馴染んでいたんですな。
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【参考】
国史大辞典
日本大百科全書