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【栗山利安(善助)】
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朝倉郡に1万5千石の所領
黒田家といえば、母里太兵衛や後藤又兵衛の武勇が知られますが、善助も負けてはいなかったのでしょう。
その後の天正15年(1587年)、島津義久や島津義弘と対峙した【九州征伐】でも活躍。
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黒田家が豊前国に入ると、善助の役割は増し、6千石にまで加増、家中を任されます。
頭脳も優れていたとされ、ついに黒田家を代表する重臣になったのです。
官兵衛の隠居後は、長政を支えました。
朝鮮出兵にも従い、【晋州城の戦い】にも参陣しています。
【関ヶ原の戦い】では、官兵衛に従い、豊後国に出兵。西軍・大友義統と戦いました【石垣原の戦い】。
ここでも武功をあげた善助は、戦後、長政が筑前国に移封された際に、朝倉郡に1万5千石の所領を与えられました。
筆頭家老として、名もあれば実もある、そんな活躍ぶりでした。
長政の死に伴い、自らは剃髪
1615年に大坂夏の陣が終わり、
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徳川の治世がこれから本格化する――という元和3年(1617年)、善助は子の大膳利章に家督を譲ります。
官兵衛は1604年に亡くなっており、それから10数年、長政をよく補佐したのですね。
元和9年(1623年)には、主君である長政の死に伴い、自らは剃髪。隠居料7百石を拝領しています。
そして寛永8年(1631年)に死去。
享年81という大往生でした。
ドラマでは、濱田岳さんがユーモラスに軽妙さもある人物として演じていますが、史実での善助は生真面目で寡黙なタイプであったとされています。
官兵衛に仕えたころから控えめで生真面目、若い頃から落ち着きのある性格でした。
黒田家臣の中でも第一位の功績があるとされる、人柄も優れた名将です。
そんな彼の跡を継いだ子の大膳には、あまりに理不尽な運命が待ち受けておりました。
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