島津義久

島津義久/wikipediaより引用(東京芸術大学大学美術館蔵)

島津家

島津義久は大友や龍造寺を相手にどうやって戦国九州を統一した?

島津に暗君なし――そんな言葉をご存知でしょうか?

「鎌倉以来の名門である島津家は常に優秀な当主を輩出する」として称えられたもので、その始まりは源頼朝御家人島津忠久まで遡ります。

以来、鎌倉→室町→江戸という武家の時代を生き残り、幕末においても島津斉彬島津久光といった優秀な人材を出しているのですから、たしかに目立った暗君はいないかもしれません。

では、そうした島津当主の中で最も優れていたのは誰か?

単純には決め難い話ですが【最も領土を広げた当主】ならば答えは出ます。

戦国時代の島津義久

【島津四兄弟】の長兄であり、荒ぶる九州武士たちをひれ伏させ、九州統一目前まで御家を拡大させた稀代の当主です。

天文2年(1533年)2月9日に生まれた、この義久は、一体どのようにして島津の名を世に知らしめたのか。

その生涯を追ってみましょう。

※以下は「島津忠久」の関連記事となります

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島津義久は「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」

島津義久は天文2年(1533年)、島津家当主である島津貴久の長子として誕生しました。

母は入来院重聡(いりきいん しげさと)の娘。この重聡は、貴久の家臣にあたります。

弟の島津義弘島津歳久も同じ両親から誕生しました。

一般的に「島津四兄弟」で知られる彼らのうち四男・島津家久のみは母が違います(身分の高くない女性)。

そのため、後年に武功を挙げるまでは、現在の「四兄弟」のように語られることはなかったと思われます。

【島津四兄弟】

長男・島津義久(1533年)
次男・島津義弘(1535年)
三男・島津歳久(1537年)
四男・島津家久(1547年)

父・島津貴久(1514年)
祖父・島津忠良(1492年)

※(カッコ)内は生年

義久は、初名は忠良を名乗っていました。

時の将軍・足利義輝より名を譲られたことで「義久」へ。

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祖父の島津忠良が残したとされる人物評においては

「三州の総大将たるの材徳自ら備わる」

と高く評価されており、若かりし頃より才を見込まれていたようです(後付けの可能性も否めませんが)。

 


父の貴久はクーデターでのし上がっていた

義久は、貴久の正統な後継者として位置づけられておりました。

興味深い点は、そもそも父の貴久がクーデターにより島津本家の家督を奪い取った「略奪者」であるということです。

島津貴久
島津貴久(四兄弟の父)は戦国時代の大隅地方を支配した島津家中興の祖だった

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表面上は前当主・島津勝久の養子となることで正当な家督継承が行なわれたように見せかけつつ、実は強引にのし上がったことが近年の研究によってハッキリしてきました。

さらに、この事実を島津家は全力で隠蔽しにかかっています。

よく政治ニュースで見かける「黒塗り文書」などという可愛いものではなく、まず「不当な継承」の証拠となりそうな系図や記録を片っ端から回収。

さらに近世に編纂した「偽史」によってその正当性を改ざんしているのです。

ともかくもこうして「正当な」後継者になった貴久は、その権力を盾に義久への家督継承を認めさせるのです。

しかし、より興味深いのは、義久の内面にある強烈な「上流意識」かもしれません。

後述しますが、彼は天下人・豊臣秀吉に対して「出自を理由に見下しにかかる傾向」があります。貴久の成り上がりの事実を知ると『それってブーメランでは……(自分に突き刺さる)』と思ったりもしますが……。

 


初陣は三兄弟揃って岩剣城の合戦

一応は島津家の正統な後継者となった義久。

しかし大変なのはそれからでした。

薩摩と言えば「強固な一枚岩!」というイメージがあるかもしれません。

それが当時はまるで違い、家督継承をめぐるクーデターが勃発し、薩摩国内で有力国衆との争いの日々が続いたのです。

天文23年(1554年)に経験した島津義久にとっての初陣【岩剣城(いわつるぎじょう)の合戦】も国衆らとの戦いであり、同合戦では島津家初となる「鉄砲」も使用されました。

このとき義久は数えで22歳。

次男の義弘(20歳)、三男の歳久(18歳)も参戦し、三兄弟は「その勇威におそれるなり」と高く評価されています。義弘はそのまま岩剣城の城番を務めました。

※岩剣城……三方を絶壁の崖に覆われた標高150mの山上にある堅城

彼らはしばらく国内の国衆との戦いに明け暮れました。

父から正式な形で家督を継承したのも、薩摩統一のため合戦を繰り返していた永禄9年(1566年)のことです。

義久もこの頃は三兄弟で戦場を駆け回っており、元亀7年(1570年)に統一するまでの間、敵対する国衆を軍事・外交面で圧倒していきました。

織田信長が義久の一つ歳下(1534年生まれ)で、家督継承後、尾張の完全統一に14年間(1552年から1565年)費やしているのと比べると、若干、遅い印象でしょうか。

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しかし、それだけ薩摩の国衆が激しかったとも言えましょう。

義久は、薩摩統一を完了した後、かねてより対立していた隣国の大隅・日向を狙い始めました。

元亀3年(1572年)には日向の伊東家を【木崎原の戦い】で撃破。

さらに天正元年(1573年)には大隅内で力を持っていた国衆の肝付氏や伊地知氏らを服属させ、まず大隅統一を果たします。

残された日向に関しても攻勢を緩めることはなく、天正5年(1577年)、ついに当主の伊東義祐(いとう よしすけ)を豊後へと亡命させることに成功しました。

こうして長年の宿敵であった伊東氏を事実上滅ぼすと、彼は義祐の亡命先・豊後で隆盛を誇ったあのキリシタン大名と対峙していくことになります。

そうです。
大友宗麟です。

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