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【島津義久】
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戸次川の戦い
その後も大軍をもって豊後攻略を続ける島津。
一進一退の攻防が続く中、ついに秀吉が腰を上げます。
仙石秀久らの豊臣四国連合軍を九州に上陸させ、島津との直接対決をチラつかせたのです。
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しかし、待っていた結果は秀吉の期待に反するものでした。
見通しの甘い仙石らの進軍に対し、島津家久が【釣り野伏せ】を仕掛けて豊臣四国連合軍は惨敗。
長宗我部元親の嫡男であった長宗我部信親などを討ち取られ、仙石秀久は讃岐まで逃亡するという大失態を演じるのです。
宗麟の跡を継いでいた大友義統も豊前へと逃亡するしかありません。
いわゆる【戸次川の戦い】と呼ばれる一戦です。
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もはや島津の勢いを妨げるものはなく、後は大友宗麟の臼杵城を落とせば九州統一は目前だ! 誰もがそう思ったであろう矢先のことでした。
天正15年(1587年)、豊臣秀長が率いる毛利・小早川・宇喜多ら「西国オールスター軍」10万が九州に上陸。
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圧倒的な軍勢で次々に島津の拠点を落としていくのです。
島津も夜襲などで抵抗を試みますが、もはや大勢を覆すには至りません。
この敗退によって各地の国衆が一斉に降伏し始め、ついに義久も諦念。髪を剃り服従を表明します。
島津による九州統一の夢はここに潰えたのでした。
「卑しく低い身分」と見下していた秀吉に屈服せねばならない義久は、さぞかし屈辱だったことでしょう。
義久はこの豊後合戦に際して、進退を頻繁にくじで占っていたという記録が残されています。
家臣の上井覚兼から「愚かという他ない……」と呆れられてしまいますが、近年の研究では「くじの結果で撤退しただけ」というように、豊臣との全面衝突を避ける狙いがあったとも考えられています。
ただ義久は、呪術が盛んだった当時の中でも抜きんでて「くじ」を用いる例が多く、ある意味「くじ引き大名」と呼んでも差し支えないかもしれません。
苦難の豊臣家臣時代
やむなく秀吉に降伏した義久は薩摩一国を安堵され、義弘には大隅一国、義弘の嫡子・島津久保(しまづ ひさやす)には日向国の一部が与えられました。
なぜ義弘にこれだけの所領が与えられたのか?
豊臣政権が義弘のことを事実上の島津家当主と考えたためです。
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ただし、近年になって島津家内で家督の継承が行なわれていたという事実は否定されており、義弘はあくまで義久の「名代」であったと考えられるようになりました。
豊臣家から見れば義弘が当主であり、薩摩国内から見れば義久が当主であるという体制が構築されていたものと思われます。
こうした体制のためか。島津家は【刀狩り】などの政策に対するリアクションも鈍く、折衝役の義弘と義久の関係性が良好でなかった可能性も指摘されます。
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さらに、朝鮮出兵に際して藩政の窮乏から軍役を賄うことができず、寺社領を徴収することでなんとか軍備に当てる有様。
秀吉のやり方に不満をもった家臣の梅北国兼が反旗を翻し騒動を起こすなど、家中は大混乱の様相を呈することに陥るのです。
騒動の影響は大きく、以下のように島津家のあり方に大きな影響をおよぼしました。
・秀吉から兄弟の歳久が黒幕だと見なされ、義久が自害を命じる
・文禄の役に大きく遅参してしまう
・秀吉の不信感につながり、徹底した太閤検地を実施される
そして不運は続きます。
義久派、義弘派、忠恒派
不運とは他でもありません。
朝鮮の地で後継者と定められていた義弘の息子・島津久保が亡くなってしまったのです。
新たな後継者として浮上したのが島津忠恒でした。忠恒は久保と同じく義弘の子であり、かつ正室は義久の娘である亀寿という女性でした。
そのため、次期後継者の外祖父として義久が引き続き発言力を有しています。
こうした情勢の中、多大な負担となっていた朝鮮出兵も秀吉の死をもって終了。
島津としては手放しで「万々歳!」とは言い切れず、豊臣政権との関わりの中で権力が分裂してしまい、島津家中の軋轢は増すばかりでした。
義久に仕え続けてきた重臣が殺害される事件なども勃発しています。
最終的に、家臣団は「義久派」「義弘派」「忠恒派」の三派に分裂し、ここに「三頭体制」が構築されることになりました。
ただし悪いことばかりではありません。
秀吉の死後、豊臣政権による介入圧力が減ったことで、旧来の土地を離れざるを得なかった家臣たちに「島津」の名で旧領復帰を許可できたのです。このことは結果的に江戸幕府以降の藩政にプラスの影響を与えたという見方があります。
いずれにせよ、島津家、特に義久にとって豊臣家の支配下にあった約10年の期間が苦難に満ちたものであったということは間違いありません。
天下統一の夢は幕末へ
慶長5年(1600年)に起きた【関ヶ原の戦い】では、島津義弘が西軍の武将として戦に参加しました。
しかし、義久および忠恒は中立の立場を貫き、義弘を援護するということはなかったようです。
最終的に戦は東軍の勝利に終わり、義弘は戦場からの敗走を余儀なくされました。
有名な【島津の退き口】ですね。
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問題は、戦後の保障問題でしょう。
島津家としては中立の立場だと主張しても、実際に義弘は紆余曲折があったにせよ西軍として参加しております。
徳川家康も【九州征伐】の計画を推し進めました。
しかし、計画自体は途中で終わり、義久と家康の間で和平交渉が進められていきます。
実に2年という長期に渡って行われた講和では、家康による義久上洛の要請をたびたび拒んでいる点が特徴的でしょう。
結局は、頑として動かない義久に家康が折れるカタチで次期後継者の島津忠恒が代わりに上洛。義久は忠恒の上洛にすら反対の立場でしたが、結果的にそれを押し切って家康と面会したことで本領が安堵されます。
その後は家督を正式に忠恒へと継承しながら、義久は亡くなるまで家中で発言力を有し続けていたようです。
そんな姿勢が疎んじられたのか。
晩年に向かうに従い、義弘や忠恒との関係が悪化。関係が改善されることはないまま慶長16年(1611年)、義久は生涯を終えました。
享年79。
天下を夢見ながら、秀吉や家康といった「成り上がり者」の手によってそれを叶えられなかった義久。
しかし、その無念が世代を超えて引き継がれ、幕末になって花開くことになるとは、当時は誰も予想さえしていなかったでしょう。
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文:とーじん
【参考文献】
国史大辞典
三木靖『薩摩島津氏』(→amazon)
日本史史料研究会 (監修)・新名一仁(編集)『中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像』(→amazon)
栄村 顕久『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―』(→amazon)