最上家

「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦で見える!兼続・義光・政宗たちの戦略戦術

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政宗の行動は、長期戦を見据えたものでした。

このとき、家康があっという間に西軍を倒してしまうとことなど、誰もが予想だにしておりません。

今回の大戦で、日本は再び乱世に戻るだろう——。
政宗のみならず、多くの大名がそう考えていました。

その時どうするか。
最も有利な状況にするため、積極的に奥羽をかき回してやろうとしていたというのが、政宗の考えです。
その目的からすれば、政宗の行動は理にかなっています。むしろ、よくぞここまで見事な攪乱をできたものだと感心させられます。

この戦いが早期決着するか、死か。
そんな危険な賭けに有り金全部を投じるような行動を取った最上義光は、数少ない例外でした。

しかも、彼自身その賭けに勝てるとは、あまり思っていなかったふしがあります。

ここがポイント!
伊達:政宗は「母親を救うため山形に援軍を出した」わけではない
伊達:政宗は留守政景を山形への援軍を派遣したものの「積極的には動かないように」と命じていた
伊達:政宗の一連の行動は、乱世が再度訪れることを見越してのこと
最上:義光の妹であり政宗の母である義姫が、このときも両家を結びつけ、援軍を促す役割を果たした

 

兼続の焦燥

兼続は長谷堂城をなかなか落とせず、焦りを感じていました。
必ず落とせるだろうとは思うものの、時間をあまりに掛けすぎるワケにもいかないのです。

おまけに上山口から進軍していた別働隊は、最上方の里見民部によって撃退されてしまい、計画が狂います。

兼続は家康の動きを察知したうえで、相手が奥羽へと攻めてくることはなく、上方で戦うことを確信していました。そうなれば、景勝らは家康に備える必要はありません。

「かくなる上は、殿に御出馬願おう」

兼続はそう考え、会津に準備を整えるよう連絡します。
最上も伊達もこの動きを察知し、警戒を強めます。

ここがポイント!
上杉:上山方面の軍勢が敗れて計画がくるった
上杉:直江兼続は上杉景勝の出馬を要請していた

 

上方からの急報、そして撤退へ

9月15日、関ヶ原では決着が一日でついてしまいました。
しかしそれを知ることもなく、兼続や義光は、遠い出羽で戦い続けます。

その一報が兼続の陣に届いたのは、9月29日のこと。約2週間が経過しておりました。

翌日の30日には、伊達にも関が原の報が届き、さらに早馬で最上にも伝わります。

「今回は流石に負けるよね、駄目だよね……」
そんな絶望の中で戦い続けた最上勢は歓喜につつまれます。

そして10月1日から、激しい撤退戦が始まるのでした。

上杉勢は要所に鉄砲隊を配置、追いすがる敵に射撃を加えました。
この戦法は最上勢を苦しめ、義光自身も兜に被弾。
最上義光歴史館で展示してある「三十八間金覆輪筋兜」には、なまなましい弾痕が残されています。

この戦いでは、兼続も義光も率先して軍を率いて、積極的に戦いました。

両軍とも激戦の最中、多数の犠牲が出ました。
10月3日、兼続自身は荒砥城に入り、翌4日には米沢に到着。撤退に成功します。

しかし、急いでいたため味方との連絡がつきません。
最上領内に取り残された中には、降伏せざるを得ない者もいました。彼らは翌春、最上勢による庄内攻めにおいて先陣に立たされることになりました。

この撤退戦は「長谷堂合戦屏風」や軍記物に記録されて名高いもの。義光は、兼続の撤退ぶりを絶賛しております。

さて、ここで伊達政宗のコメントを見てみましょう。

「うちは首80くらい取ったかな。最上衆が弱くて大戦果というわけにはいかなかった。撤退では最上衆がマジ弱くて、敵を討ち果たせなくてホントガッカリだよな」

最上衆が弱いというのは、前線にまで総大将が出て行って撃たれた、そういう戦術のまずさを嘆いているのでは、と言われております。

ここがポイント!
上杉:敵よりも早めに関ヶ原の結果を入手していた。しかし情報伝達が不十分であった
上杉:待ち伏せた射撃で、追撃してくる敵に損害を与える
最上:最上義光すら被弾するほど、射撃に苦しめられるものの奮戦。直江兼続は逃したが、上杉の将を降伏させる等戦果をあげた
伊達:最上勢の戦術や実力に不満を感じていた

 

兼続・義光・政宗たちの戦略戦術

以上が慶長出羽合戦の流れです。

直江兼続は、なかなか積極的に前線に出て、家康の動きを見つつ、戦略を臨機応変に変えています。
撤退戦は彼の高い指揮能力が存分に発揮されました。

最上義光も、積極性が裏目に出かねないほど前線に立っています。
圧倒的に不利な状況ながら、よく粘り敵の撤退まで持ちこたえました。

伊達政宗は、この戦いにおいては援軍を派遣したにとどまります。
ただし、この動乱において見事な策謀を発揮しています。
政宗の強さである外交や策略の片鱗がうかがえます。

このように、奥羽の錚々たる武将が鎬を削った「北の関ヶ原」は、やはり興味深い戦いと言えるのではないでしょうか。
歴史ファンの一人として、今後、この戦いにスポットライトが当たることを願ってやみません。

文:小檜山青

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【参考】
国史大辞典

『最上義光 (人物叢書)』(→amazon link

 



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