大河ドラマ『真田丸』の放映時、村上新悟さん演ずる直江兼続がキレッキレの【直江状】朗読をぶちかまし、歴史ファンの間で話題になりました。
しかし、このときの上杉家の描写はここまで。
次の出番では「伊達と最上がいるからには、先に倒さねばならない」と語り合い、さらに次のシーンで上杉景勝と直江兼続の主従が意気消沈、すでに“戦い”は終わっていました。
戦いとは「北の関ヶ原」こと【慶長出羽合戦】であり、残念ながら多くの作品で無視されがちな存在です。
なぜなのか?
中央から離れているから?
それとも皆さん興味がない?
上杉景勝・直江兼続・伊達政宗・最上義光という名だたる大名たちが顔を揃え、まさに役者は揃った状態。
今回は、兼続主演の大河ドラマ『天地人』ですら、なぜかまともに描かれなかった慶長出羽合戦を振り返ってみたいと思います。
| 北の関ヶ原こと慶長出羽合戦の陣容 | |
| 上杉景勝(西軍) | 直江兼続本隊2万5千、庄内方面3千 |
| 最上義光(東軍) | 総勢7千前後(山形方面は3千、庄内方面4千) |
| 伊達政宗(東軍) | 山形への援軍は3千、総大将は留守政景 |
会津討伐、突然のリターン&キャンセル
それは慶長5年(1600年)4月のことでした。
直江兼続が徳川家康に送りつけた超無礼な手紙、直江状を機に会津征伐がスタート。
このとき東北の二大巨頭である伊達政宗と最上義光は、徳川に味方しました。
※以下は「直江状」の関連記事となります
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直江状|家康を激怒させた書状には何が書かれていた?関ヶ原を誘発した手紙
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彼らは家康から「切り取り次第で加増するよ」という約束を取り付けることに成功。
一方、西軍の石田三成は「伊達と最上の妻子を人質として確保しているから、彼らは我に味方するはずだ」との確信を持っていたのでした。
会津・上杉領の隣に位置する最上義光は上杉攻めの主役となります。家康は他の武将たちに向かい、「最上口から攻め入る者は義光に従うように」と命じます。
「これは大役だ! よーし義光、がんばっちゃうぞ!」
愛する娘・駒姫を豊臣秀吉に無残に殺され、家康に臣従していた最上義光は超絶気合いフルパワー。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用
戦勝祈願の祈祷を行い、準備を整えます。
これに対し上杉家では、相手を迎え撃つため、神指城の建築を進めます。
決戦の地を白河皮籠原と定め、景勝の本陣は勢至堂峠に置きました。
しかし、7月25日。肝心の家康が石田三成の挙兵を受けて軍を反転、西日本へと引き返してしまいます。
さて、どうするか?
反転する家康の背中を、結果として上杉家は追いかけませんでした。
その理由として、信じられていたのが「背中を突くことは卑劣であり、上杉の義にふさわしくない」というもの。
しかしこれは、“義”の上杉を美化あるいは単純化するために作られた伝説です。現在では家康派を抑え込み、解体することが目的であったという説が有力視されています。
伊達・最上を放置して家康を追えば、かえって東軍派にその背中を突かれるかもしれません。後顧の憂いを絶つためにも、東北の両家を攻略することは必須でした。
2009年の大河ドラマ『天地人』では、まだ「上杉の義」説を採用していました。
これが2016年の大河ドラマ『真田丸』になると、直江兼続の台詞で「伊達と最上が背後にいる状態では動けない」と説明。最新の研究が反映されたことの一例と言えるでしょう。
大事なことをおさらいしておきます。
ここがポイント!
伊達:「百万石のお墨付き」を与えられたのではなく、あくまで「切り取り次第で加増」とされている
上杉:義のために家康を追撃しなかったわけではなく、家康派牽制のため最上攻撃を優先
最上義光、大ピンチ!
この状況で最も危機に陥ったのは、最上義光です。
なぜなのか?
順を追って説明して参りましょう。
まず7月29日、石田三成討伐のため徳川軍を西へ反転させたという一報が、家康から義光に届けられます。
8月13日前後には、会津攻めのため山形に集まっていた諸大名(南部利直、秋田実季、戸沢政盛、小野寺義道、六郷政載)らが帰国してしまいました。
要は、大軍で上杉を潰す予定だったのが一転して、攻める側から攻められる側に逆転してしまったのです。
このとき兵数は、最上約7,000に対し、上杉は30,000規模でした。
石高でいうと、最上は24万石で上杉は120万石ですからマトモにぶつかれば、とても敵う相手じゃありません。更には庄内地方の小野寺義道も上杉に呼応する動きを見せ、どうにもならなくなってしまいました。
家康からは「会津に油断しないように」という連絡が届けられますが、「いやいや、もうどうにもならんでしょ!」状態。
結果、義光は、嫡子の義康を人質に送ってまで、上杉家に臣従する動きを見せた、という説すらあります。
まぁ、ここまで追い詰められた状況ならば、たとえポーズでも、そういう動きを見せなければならなかったのは無理のないところでしょう。
そして9月3日、上杉家は最上攻めを決定。総大将・直江兼続として、酒田方面からは志田義秀が侵攻を開始しました。

直江兼続/wikipediaより引用
これに対し、最上義光は「明け逃げ」という戦略を採りました。
防衛拠点となる城に兵力を集中させ、あとは撤退させる作戦です。最上領内の多くの城は、豊臣秀吉による破却命令を受けて破壊されており、防衛拠点には到底ならない状態だったのです。
空っぽの城は、たちまち陥落されていくのでした。
ここがポイント!
最上:最上義光が上杉に臣従していたという書状は、偽書説がある。ただし、状況からみて時間稼ぎのために臣従を装ったとしても不自然ではない
最上:明け逃げ作戦を選んだ
小野寺:当初は東軍だったが、状況が変わると「宿敵・最上を討つチャンス」と西軍側についた
畑谷城、陥落
9月8日に侵攻を開始した上杉勢は、早くも11日には畑谷城を攻撃し始めました。
江口光清ら五百名が籠もる城は、13日には陥落。畑谷城に関しては、江口光清が義光の撤退命令を無視して籠城したという説が有力でした。
しかし現在では、防御力を高め、援軍を派遣し防衛拠点とする予定だったものの、敵の進軍が早すぎて失敗したのではないかとされております。
畑谷陥落の知らせを受け、山形城下の住民はパニックに陥りました。
家財道具をまとめ、老人や子供と手を取り合いながら逃げ出す者があふれでるほど。
地元の伝承では「十三夜の餅は、早ぐ食え」という言葉が残されていたとされます。
このとき、周辺の領民が十三夜のために餅をついておいたのですが、上杉勢が来ると聞いてあわてて逃げ出し、食べ損なったことを示しております。
またこの地方では、子供が泣くと「カゲカツくっぞ」と脅していたとか。上杉勢が襲って来た恐怖が語り継がれていたのです。
上杉勢は、いよいよ長谷堂城まで迫りました。
ここがポイント!
最上:畑谷は防衛拠点とする予定であったが、間に合わなかった説がある
最上:地元には上杉勢に怯える伝承が残されている
長谷堂城防衛戦
9月14日、直江兼続の軍勢は、ついに長谷堂城まで迫り、包囲を開始します。
長谷堂城と山形城の距離はおよそ8キロ。最終防衛ラインです。ここを落とされると、もう後がないのです。
古くは永正5年(1508年)、伊達稙宗が最上領に侵攻し、長谷堂城を陥落させた際に、当時の当主・最上義定は実質的に敗北した状態にまで追い込まれました。

伊達稙宗/wikipediaより引用
とにかく守るしかないデッドライン、長谷堂城――。
この城は、規模はさほど大きくないものの、周囲を深田に囲まれ、須川の流れが天然の堀となって行く手を阻みます。城へと通じる道は険しく、守りの堅い城でした。
そうはいっても、守りを固める志村光安の手勢は僅か千前後しかありません。
山形城から鮭延秀綱らの増援が駆けつけるとはいえ、心もとない状態でした。
上杉勢は堅い守りと敵の反撃にあい、攻めあぐねました。激戦の中、剣豪・上泉主水泰綱も失ってしまいます。
と、この長谷堂の攻防は軍記ベースであり、史実は判然としておりません。鮭延秀綱の回想によると、総大将である最上義光自ら戦場に立ち、奮戦していたとのこと。
更に義光は、嫡男・義康を伊達政宗のもとに派遣し、援軍を請います。
ちなみに義康と政宗は従兄弟同士にあたります(政宗の母が最上義光の妹)。
さて、この頃、伊達政宗はどうしていたのでしょうか。
ここがポイント!
最上:長谷堂城は最上にとって最終防衛ライン
最上:長谷堂城は防御力が高く攻めにくい
上杉:思わぬ苦戦を強いられ、上泉主水泰綱を失う
最上と伊達が組んでわずかな勝機
関ヶ原前後の伊達政宗の行動は、不可解に思える点があります。

伊達政宗/wikipediaより引用
7月25日には上杉方の白石城を攻撃、陥落させます。
この時点では上杉領に侵攻する動きを見せていたものの、家康の反転と同時に自らは北目城へと移動します。
9月16日、義光から援軍要請を受けた政宗は、留守政景3千を山形へ派遣することを決定。
このときのやりとりで有名なものは、以下の通りです。
片倉小十郎景綱「ここで上杉に山形を攻め落とさせ、そこを伊達が討ち取ればよいのでは?」
伊達政宗「しかし、山形城には母上がおられる。見殺しにするわけにはいかん!」
残念ながら、このヤリトリは後世の創作です。
この時点で上杉と伊達の力には大きな差があります。
伊達と最上が同時に別方面から上杉を叩きに行って初めて、少しは勝機も見えてくる――そんな差。最上を吸収した上杉を伊達が倒せるとは到底思えません。
実際はこんなところでしょう。
伊達政宗「あ~、どうすっかな~。最上はウザいけど、ここでやられたらヤバいよなあ。上方からまだ連絡ないのかよ。とりあえず3千送るけどよぉ、政景はそうホイホイ動くなよ。マジでヤバイって時、加勢すりゃいいから」
留守政景「ええっ……そ、そんな」
政宗「最上の領土が全部焼けても、お前は気にすんなって」
政景「えぇ……」
ここで政宗のカーチャン登場……。
義姫「伊達の援軍がそこまで来ているのに、遅い! 一体何してるのよ!!」
留守政景の援軍はなかなか到着しなかったらしく、政景にとって兄嫁にあたる義姫は援軍を急かす書状を夜中まで書き続けました。
結果から先に申しますと、義姫が婚家の伊達と実家の最上をつなぎ、援軍を促す重要な働きを果たすのです。
※大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響で悪女に描かれることもある彼女ですが、実は聡明な女性であることが有力視されており、その詳細については以下の記事を御覧ください。
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義姫の生涯|伊達政宗の母で義光の妹 最上家の危機を救った抜群の交渉術とは
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政宗は長期戦を見据えていた?
閑話休題。
政宗は、義光が須川を越えたと知ると「須川越えるとか出過ぎでしょ、自重しないと駄目じゃん。お粗末過ぎて見てらんない」と書状を送ります。
ギリギリの攻防を続ける義光と比較すると高みの見物感といいましょうか。もしも最上が落ちたら、自身も危なくなる可能性があるのに、さすが政宗さんと申しましょうか。
そのせいか「同じ東軍同士であるにも関わらず南部領で和賀忠親に一揆を起こさせた」という行動に対しては、マジでコイツ何考えてるんだ?と思われる方も多いかもしれません。
しかし政宗は一人でルール違反をしていたとか、そのせいで「百万石のお墨付き」を反故にされたわけでもありません。
では、政宗は何を見ていたのか?
政宗の行動は、長期戦を見据えたものでした。
このとき、家康があっという間に西軍を倒してしまうとことなど、誰もが予想だにしておりません。

徳川家康/wikipediaより引用
今回の大戦で、日本は再び乱世に戻るだろう——と、政宗のみならず、多くの大名がそう考えていました。
その時どうするか。
最も有利な状況にするため、積極的に奥羽をかき回してやろうとしていたというのが、政宗の考えです。
その目的からすれば、政宗の行動は理にかなっています。
むしろ、よくぞここまで見事な攪乱をできたものだと感心させられます。
この戦いが早期決着するか、死か。そんな危険な賭けに有り金全部を投じるような行動を取った最上義光は、数少ない例外でした。
しかも、彼自身その賭けに勝てるとは、あまり思っていなかったふしがあります。
ここがポイント!
伊達:政宗は「母親を救うため山形に援軍を出した」わけではない
伊達:政宗は留守政景を山形への援軍を派遣したものの「積極的には動かないように」と命じていた
伊達:政宗の一連の行動は、乱世が再度訪れることを見越してのこと
最上:義光の妹であり政宗の母である義姫が、このときも両家を結びつけ、援軍を促す役割を果たした
兼続の焦燥
兼続は長谷堂城をなかなか落とせず、焦りを感じていました。
必ず落とせるだろうとは思うものの、時間をあまりに掛けすぎるワケにもいかないのです。
おまけに上山口から進軍していた別働隊は、最上方の里見民部によって撃退されてしまい、計画が狂います。
兼続は家康の動きを察知したうえで、相手が奥羽へと攻めてくることはなく、上方で戦うことを確信していました。
そうなれば、景勝らは家康に備える必要はありません。

上杉景勝/wikipediaより引用
「かくなる上は、殿に御出馬願おう」
兼続はそう考え、会津に準備を整えるよう連絡します。
最上も伊達もこの動きを察知し、警戒を強めます。
ここがポイント!
上杉:上山方面の軍勢が敗れて計画がくるった
上杉:直江兼続は上杉景勝の出馬を要請していた
上方からの急報、そして撤退へ
9月15日、関ヶ原では決着が一日でついてしまいました。
しかしそれを知ることもなく、兼続や義光は、遠い出羽で戦い続けます。
その一報が兼続の陣に届いたのは、9月29日のこと。約2週間が経過しておりました。
翌日の30日には、伊達にも関が原の報が届き、さらに早馬で最上にも伝わります。
「今回は流石に負けるよね、駄目だよね……」そんな絶望の中で戦い続けた最上勢は歓喜につつまれます。
そして10月1日から、激しい撤退戦が始まるのでした。
上杉勢は要所に鉄砲隊を配置、追いすがる敵に射撃を加えました。
この戦法は最上勢を苦しめ、義光自身も兜に被弾。
最上義光歴史館で展示してある「三十八間金覆輪筋兜」には、なまなましい弾痕が残されています。
この戦いでは、兼続も義光も率先して軍を率いて、積極的に戦いました。
両軍とも激戦の最中、多数の犠牲が出ました。
10月3日、兼続自身は荒砥城に入り、翌4日には米沢に到着。撤退に成功します。
しかし、急いでいたため味方との連絡がつきません。
最上領内に取り残された中には、降伏せざるを得ない者もいて、翌春、最上勢による庄内攻めにおいて先陣に立たされることになりました。
この撤退戦は「長谷堂合戦屏風」や軍記物に記録されて名高く、義光も、兼続の撤退ぶりを絶賛しております。
さて、ここで伊達政宗のコメントを見てみましょう。
「うちは首80くらい取ったかな。最上衆が弱くて大戦果というわけにはいかなかった。撤退では最上衆がマジ弱くて、敵を討ち果たせなくてホントガッカリだよな」
最上衆が弱いというのは、前線にまで総大将が出て行って撃たれた、そういう戦術のまずさを嘆いているのでは、と言われております。
ここがポイント!
上杉:敵よりも早めに関ヶ原の結果を入手していた。しかし情報伝達が不十分であった
上杉:待ち伏せた射撃で、追撃してくる敵に損害を与える
最上:最上義光すら被弾するほど、射撃に苦しめられるものの奮戦。直江兼続は逃したが、上杉の将を降伏させる等戦果をあげた
伊達:最上勢の戦術や実力に不満を感じていた
兼続・義光・政宗たちの戦略戦術
以上が慶長出羽合戦の流れです。
直江兼続は、なかなか積極的に前線に出て、家康の動きを見つつ、戦略を臨機応変に変えています。
撤退戦は彼の高い指揮能力が存分に発揮されました。
最上義光も、積極性が裏目に出かねないほど前線に立っています。
圧倒的に不利な状況ながら、よく粘り敵の撤退まで持ちこたえました。
伊達政宗は、この戦いにおいては援軍を派遣したにとどまります。
ただし、この動乱において見事な策謀を発揮しています。政宗の強さである外交や策略の片鱗がうかがえます。
このように、奥羽の錚々たる武将が鎬を削った「北の関ヶ原」は、やはり興味深い戦いと言えるのではないでしょうか。
歴史ファンの一人として、今後、この戦いにスポットライトが当たることを願ってやみません。
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参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館, 全15巻17冊, 1979–1997年刊)
出版社: 国史大辞典(JapanKnowledge 公式案内) - 伊藤 清郎『最上義光(人物叢書 新装版)』(吉川弘文館, 2016年3月, ISBN-10: 464205278X / ISBN-13: 978-4642052788)
出版社: 吉川弘文館公式商品ページ |
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