最上騒動と山野辺義忠

最上義光像

最上家

山野辺義忠(義光の四男)の生涯|最上騒動で担がれるも水戸藩の家老へ

2024/12/13

誰しも一度は、親や先生に「真面目に勉強しなさい」と言われたことがありますよね。

ところがどっこい、世の中には「真面目にやっていたのに、とんだ貧乏くじを引かされた」という人もいます。

寛文四年(1665年)12月14日は、水戸藩の家老・山野辺義忠が亡くなった日です。

ご家老というと「先祖代々同じ家に仕えているエラい人」というイメージがありますが、彼の場合少々……どころではなく【最上騒動】というトラブルに巻き込まれ、かなり変わった経緯でこの地位にたどり着きます。

何がどうしてそうなったのか?

そこには彼の生まれ育ちと、時代の流れが大きく影響していたのでした。

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内政に長けた中学生・山野辺義忠

義忠は、天正十六年(1588年)、最上義光の四男として生まれました。

元は、東北を代表する戦国大名家の子息だったんですね。

※以下は最上義光の生涯まとめ記事となります

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母の名や身分は不明です。

最上領内の郷士の娘ともいわれていますが、その一方で、関ヶ原の際には徳川家康に人質として出されていたり、13歳で山野辺城を任されていたり、庶子にしては厚遇されているのが気になるところです。

こうなると正室の大崎夫人から生まれている可能性もなきにしもあらず――その場合、駒姫の同母弟ということになりますね。

生い立ちの謎は今後の研究に期待というところで。

駒姫像/wikipediaより引用

山野辺城で約2万石を預かる身となった義忠は、城下町や交通の整備、寺社への支援、治水事業など意欲的に内政を行いました。

当時の社会通念では大人扱いされる歳ですが、中学生くらいの年齢としては恐るべき仁政です。

しかし、父の最上義光が亡くなり、跡を継いだ次兄・最上家親もまた若くして命を落とす……なんて言うと嫌な予感しかしませんね。

一度は家親の息子(義忠の甥っ子)・最上義俊が当主になったものの、大藩の主君とするには危うく、家臣たちがお家の存続を危ぶみはじめました。

そして、英邁(えいまい・才知すぐれた人)の誉れ高い義忠も、無関係ではいられなくなります。

最上本家の家老たちの間で「義忠様こそ当主にふさわしい」とする者が表れ、【最上騒動】と呼ばれるお家騒動にまで発展してしまうのです。

 


マジメに仕事してたら巻き込まれた

結局、幕府が仲介に入っても、家臣たちの怒りは一向に収まらず、最上家は改易。

義忠は一方の中心人物として岡山藩・池田忠雄預かりの身という憂き目をみることになりました。

池田忠雄(淡路洲本藩主→備前岡山藩2代藩主)/wikipediaより引用

義忠からすれば「実家を出て真面目に仕事をやっていたら、いつの間にか担ぎ上げられた上に罪人扱いになったでござる……な、何を言っているのか(ry」という感じなわけで、可哀想過ぎるにも程があります。

息子2人と家臣16人の同行が許されたのは、不幸中の幸いだったかもしれません。

なお、最上騒動の際、義忠の弟2人もそれぞれ別の大名家へ預けられているのですが、何故かその直後に切腹。

戦でもないのに本当に悲惨ですね。

こうして12年もの間、自由を奪われた義忠が開放されたのは、三代将軍・徳川家光の頃でした。

きっかけは、預かり先が水戸藩初代・徳川頼房に変更されたことです。

その後、いきなり1万石を与えられて水戸藩の家老、そして嫡子・水戸光圀(通称”水戸黄門”)の教育係まで任されています。

 

不良息子だった水戸光圀の教育係に任ぜられ

ほんの少し前まで罪人扱いだったのに、突然の超出世――なぜ義忠がここまで厚遇されるようになったのか。

理由はハッキリしていませんが、家光が「能力のある者には最大限の立場や権力を与える」ことをモットーとしていた感があるので、その一例でしょうか。

徳川家光/Wikipediaより引用

神君・徳川家康と、藩祖・最上義光の間柄が昵懇だったのも考慮されましたかね。

あるいは当時不良息子だった光圀の教育係を探していて「コイツなら矯正できそう」と白羽の矢を立てたのかもしれません。

義忠が水戸藩に行ってから教育係になるまで数年あり、その間、義忠の能力を見極める期間だった……と考えてもよさそうです。

 

最上家の地位を繋げた唯一の一族

義忠は光圀の代になってから隠居・出家し、一年後に亡くなりました。

水戸光圀/Wikipediaより引用

最上義光の息子たちの中で、唯一、天寿を全うしたという点で特異です。

そして、その子孫たちも水戸藩の家老として存続しているため

「大名にあらずとも、しかるべき立場で最上家の血を伝えた唯一の一族」

ということもできます(※旗本として生き残ったご子孫もいる)。

ただし、最上騒動と義忠の辿った経緯を踏まえてか――藩内で権力を握ろうとはしなかったようです。

江戸時代のお家騒動の中で、家臣同士の権力争いによって悪化したものが少なくないことを考えると、賢明な判断ですね。

地味といえば地味ですが、血を繋げていくことが武家の最大の目的であり、義務でもありますし。

最上の姓ではないとはいえ、これなら義光も安心したかもしれません。

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【参考】
国史大辞典
『御家断絶-改易大名の末路 (別冊歴史読本 15)』(→amazon
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末』(→amazon
山野辺義忠/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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