誰しも一度は、親や先生に「真面目に勉強しなさい」と言われたことがありますよね。
ところがどっこい、世の中には「真面目にやっていたのに、とんだ貧乏くじを引かされた」という人もいます。
寛文四年(1665年)12月14日は、水戸藩の家老・山野辺義忠が亡くなった日です。
ご家老というと「先祖代々同じ家に仕えているエラい人」というイメージがありますが、彼の場合少々……どころではなく【最上騒動】というトラブルに巻き込まれ、かなり変わった経緯でこの地位にたどり着きます。
何がどうしてそうなったのか?
そこには彼の生まれ育ちと、時代の流れが大きく影響していたのでした。
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内政に長けた中学生・山野辺義忠
義忠は、天正十六年(1588年)、最上義光の四男として生まれました。
元は、東北を代表する戦国大名家の子息だったんですね。
※以下は最上義光の生涯まとめ記事となります
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母の名や身分は不明です。
最上領内の郷士の娘ともいわれていますが、その一方で、関ヶ原の際には徳川家康に人質として出されていたり、13歳で山野辺城を任されていたり、庶子にしては厚遇されているのが気になるところです。
こうなると正室の大崎夫人から生まれている可能性もなきにしもあらず――その場合、駒姫の同母弟ということになりますね。
生い立ちの謎は今後の研究に期待というところで。
山野辺城で約2万石を預かる身となった義忠は、城下町や交通の整備、寺社への支援、治水事業など意欲的に内政を行いました。
当時の社会通念では大人扱いされる歳ですが、中学生くらいの年齢としては恐るべき仁政です。
しかし、父の最上義光が亡くなり、跡を継いだ次兄・最上家親もまた若くして命を落とす……なんて言うと嫌な予感しかしませんね。
一度は家親の息子(義忠の甥っ子)・最上義俊が当主になったものの、大藩の主君とするには危うく、家臣たちがお家の存続を危ぶみはじめました。
そして、英邁(えいまい・才知すぐれた人)の誉れ高い義忠も、無関係ではいられなくなります。
最上本家の家老たちの間で「義忠様こそ当主にふさわしい」とする者が表れ、【最上騒動】と呼ばれるお家騒動にまで発展してしまうのです。
マジメに仕事してたら巻き込まれた
結局、幕府が仲介に入っても、家臣たちの怒りは一向に収まらず、最上家は改易。
義忠は一方の中心人物として岡山藩・池田忠雄預かりの身という憂き目をみることになりました。
義忠からすれば「実家を出て真面目に仕事をやっていたら、いつの間にか担ぎ上げられた上に罪人扱いになったでござる……な、何を言っているのか(ry」という感じなわけで、可哀想過ぎるにも程があります。
息子2人と家臣16人の同行が許されたのは、不幸中の幸いだったかもしれません。
なお、最上騒動の際、義忠の弟2人もそれぞれ別の大名家へ預けられているのですが、何故かその直後に切腹。
戦でもないのに本当に悲惨ですね。
こうして12年もの間、自由を奪われた義忠が開放されたのは、三代将軍・徳川家光の頃でした。
きっかけは、預かり先が水戸藩初代・徳川頼房に変更されたことです。
その後、いきなり1万石を与えられて水戸藩の家老、そして嫡子・水戸光圀(通称”水戸黄門”)の教育係まで任されています。
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