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【最上義光】
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義光がアンチ豊臣の急先鋒になったワケ
豊臣政権下でやっと平穏な日々を送ることができると思っていたのに、最上義光ら奥羽の人々が感じたのは深い失望でした。
このころ奥羽では、こんな言葉がささやかれます。
「京儀を嫌い申す(京都のやり方=豊臣政権の統治が嫌いだ)」
なぜ彼らはこんな風に思ったのか。
改易された奥羽の大名家臣牢人らの不満がくすぶっていたこと。
奥羽の大名にとってかわった新領主の言動が傲慢だったこと。
これら複合的な要因があった中で、最も深刻だったのが“増税”です。
寒冷な東北地方は他の地域と比べて農業生産力は落ちますが、豊臣政権はそのことを考慮に入れず、全国一律の税率を課したのです。
結果として大幅な増税となり、領民は追い詰められました。
義光がかつて統治した庄内地方では、庄内・藤島一揆が発生。
直江兼続らによって鎮圧され、多くの死傷者が出ました。
政宗が糸を引いたとされる葛西・大崎一揆も、義光にとって無関係ではありません。
というのも、義光にとって義兄にあたる大崎義隆は、伊達家支配下の大名として上洛しなかったため、改易されていました。義光は彼の大名復帰運動を行っていたのですが、この一揆によって白紙に戻ってしまいます。
天正20年(1592年)から始まった【唐入り(文禄・慶長の役)】も義光にとってはストレスのもとでした。
義光はその歳の秋には終わるだろうと楽観的に考えていたのですが、実際にはそれよりはるかに長く続きました。
上杉景勝や政宗とちがって義光は名護屋滞陣だけであり、渡海はしていません。
それでも義光はホームシックにかかり、すっかり厭世的になりました。
「命があるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい」
「剃髪して山にでも逃げ込んでしまいたい」
「自分たちは渡海がないようで安心している」
「こんなことが終わったら鷹狩りしたいね、と皆で話していた」
義光は、こんなヤル気のまったく感じられない言葉を残しています。
庄内裁定で上杉の言い分が通ったこと、奥羽仕置き全般の過酷さ、そしてわけのわからない「唐入り」。
豊臣政権にうんざりしていた義光を、徹底的にアンチ豊臣にしてしまう悲劇が文禄4年(1595年)に発生します。
豊臣秀次の死に巻き込まれ、その側室であった義光の愛娘である駒姫が処刑されたのです。
さらにその14日後には、駒姫の母にあたる義光の正室まで亡くなります。
この事件で妻子を失い、身に覚えのない謀叛の嫌疑までかけられ、自身の命も危険にさらされた義光は、露骨にアンチ豊臣としか思えない行動を取るようになります。
心のよりどころは徳川家康でした。
文禄5年(1596)の慶長伏見大地震では、他の大名がこぞって秀吉の元に向かう中、義光は真っ先に家康の元へと駆けつけています。
義光は大名でありながら家康個人ボディガードのようなことまで進んで行っており、完全にアンチ豊臣の徳川派大名筆頭となったのでした。
もっともこの時点で、義光が「次の天下人が家康だろう」と考えていたかどうかは不明です。
前述の通り心情的に家康が好きな義光ですから、
「このまま豊臣が滅びて大好きな家康様が天下を取ればいいのに!」
という願望を抱いていたとしても、何ら不思議はありませんが。
120万石の上杉に対し最上24万! 絶望的な北の関が原
慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去。
その後、後継者争いから頭ひとつ抜きんでた徳川家康が、着々と天下取りに向けて進んでゆきます。
諸大名が豊臣と徳川の間で揺れ動く中、最上義光だけは終始一貫して徳川でした。
この頃、多くの外様大名がどちらにつくか旗幟鮮明にしていたワケではありません。戦乱に陥った事態が長引いて、豊臣政権以前に戻った方がいいと考えていたと思われる者もいます。
そして慶長5年(1600年)、家康は上杉家重臣・直江兼続の書状【直江状】をキッカケとして、会津攻めを決意しました。
この会津攻めで、義光は「最上口」(山形・置賜方面)から攻め入る南部、秋田ら大名を率いるよう、家康から命じられます。実際、多くの大名が山形城に集い、攻撃の準備を開始しました。
ところが石田三成の挙兵を知った家康は会津攻めを中止し、反転し引き返してしまいます。
上杉景勝が反転する家康の背後を突くにせよ、その前に伊達・最上を攻略せねばできません。
最上と上杉の攻守は、逆転してしまったのです。
このとき、最上家の石高は24万石。
対して上杉家は120万石。
最上に伊達の58万石を足してようやく「なんとかなるかも……」というレベルの戦力差です。
ましてや上杉相手に「勝てる!」なんて考える方がどうかしている絶望的な状況でした。
義光は上杉側に和睦交渉を持ちかけると同時に、防衛作戦を展開します。
選択した作戦は「明け逃げ」。
防衛拠点である長谷堂・上山等に戦力を集中させ、あとは城を捨てるという戦法です。
9月8日から9日に分けて、2万を率いる直江兼続が最上領に進軍し、兼続は明け逃げされた城をあっという間に征圧しました。
畑谷城では撫で切りを行い、十四日には志村光安と1500名の兵が守る長谷堂城まで迫ります。この翌日には遙か西方の関ヶ原にて、家康が大勝利をおさめているのですが、それが出羽に届くまでには時間がかかります。
上方から届くはずの結果を待ちながら、義光以下の最上勢は、絶望的な防衛戦を戦い抜くことになります。
義光はさらに嫡男・義康を伊達政宗の元に派遣し、援軍を要請します。
16日、この要請を受けた政宗は、留守政景を山形へ派遣することを決定し、21日には山形近辺に着陣。
実はこの政景、むやみに攻撃に参加しないように政宗から釘をさされていました。
援軍に来たはよいものの、どこか動きの鈍い政景を、政宗の母である保春院(お東の方・義姫の出家後の名前)が急かします。
彼女は小田原参陣の4年後、家臣と揉めて岩出山城を飛び出し、実家に戻っていたのでした。
保春院の度重なる懇願に根負けした政景は、ついに重い腰を上げます。
長谷堂城の守りは堅く、また援軍として駆けつけた鮭延秀綱ら3千の援軍も善戦しました。
24日には上杉勢が長谷堂城に総攻撃を仕掛けますが、この時は義光自身や政景も加わって乱戦に。戦いの最中、義光は旗指物を奪われそうになりますが、秀綱の奮戦で守り抜くことに成功します。
29日には上杉勢の大将クラスである上泉泰綱が討死。さらに、留守で手薄になった米沢を伊達政宗が狙っているとの噂が流れ始めます。
「長谷堂攻めに時間がかかりすぎだ……」
焦り始めたのは上杉方の兼続。いよいよ戦場が煮詰まったところで飛び込んできたのが、30日、関ヶ原の報でした。
東軍勝利!
翌10月1日、兼続は撤退を開始し、義光や政景らは猛追を始めます。
義光は自ら前線に立ち「大将が撤退してどうやって敵を防ぐのか!」という、一見格好良さそうでいて総大将としてはどうなの?とツッコミたくなる言葉を残しつつ、奮戦に次ぐ奮戦。
テンション上がりすぎて、織田信長から拝領した「三十八間総覆輪筋兜」に銃弾を受けたほどです。
政宗はこの追撃戦について「最上衆が弱いせいで敵を逃した。最上衆が弱いせいで討ち果たせなくて無念だ」となかなか失礼な感想を書き残しています。
が、それでも死傷者の数は上杉勢の方が多かったのは確かです。
このときは領民たちも奮起し、多くの敵を討ち取りました。兼続本人は討ち漏らしましたが、領内に取り残された上杉勢を降伏させることが出来ました。
最上勢はそのまま庄内へと進軍を続け、降雪のため一旦は戦闘停止するものの、翌年3月には再度攻撃を再開。家康から停戦命令が出されるまで進撃を続けます。
加増は切り取り次第 最上は一気に勢力伸ばす
なぜ最上勢は攻撃を続けたのか?
これは家康から「加増は切り取り次第」という約束があったからと思われます。
関ヶ原の加増約束といえば、伊達政宗の「百万石のお墨付き」が有名です。
Wikipedia等でも「東軍に味方すれば百万石」と書かれており、この書き方だと百万石は参加賞のように思えますが、実際のところは「切り取り次第=出来高制」で、政宗だけではなく最上義光にも適用されたものと思われます。
関ヶ原後の政宗の加増は2万石に対して、義光は33万石。
政宗の加増がやけに少ないのは「百万石の御墨付」が和賀扇動の一件で反故にされたのではなく、領土の切り取りが思うようにいかなかったからでしょう。
こう書くと関ヶ原での政宗が弱かったように思えますが、そう単純な話でもないと思います。
上杉勢は本庄繁長ら主力を、伊達勢のいる東方へと展開しました。結果的に伊達勢は上杉勢えり抜きの主力とぶつかりあうことになったわけです。
一方で最上が進軍した西方の庄内方面は、手薄になっていた。政宗は上杉勢一軍、義光は上杉勢二軍と戦ったような状況でしょう。
北の関ヶ原に関して言えば、
・上杉勢から城を守りきって返す刀で快進撃をした最上もすごい
・上杉勢主力と死闘を繰り広げつつも領土を切り取った伊達もすごい
・伊達と最上という二方面に展開しながら善戦した上杉もすごい
と、皆よく戦ったのです。
北の関ヶ原が終わったあと、最上義光は24万石から57万石の大名となっていました。
名実ともに、陸奥の伊達と並ぶ出羽の大大名となったのです。
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