織田家

信長を支えながら不審死! 織田信光「小豆坂の七本槍」と称された信長の叔父

若かりしころ「うつけ者」と呼ばれた織田信長

そのせいで尾張国内の諸勢力にナメられ、父の死と同時に周囲が敵だらけになる中、数少ない味方もおりました。

一人が平手政秀
信長の傅役であり、最後は諫死(死で信長の行動をいさめる)することで知られますね。

そしてもう一人が本稿の主役・織田信光です。

一般的には、ほとんど注目されることのない名前ですが、信秀の跡を継いだばかりでまだ基盤がフラフラだった信長を支え、戦場でも活躍する武将。しかし、惜しいかな、信長が大きく飛躍する前に、“怪しい死”を迎えてしまうのです。

あと少し長く生きていれば、織田軍団の中心にいたかもしれない。

そんな織田信光の生涯を見て参りましょう。

 

織田信光 信秀の弟として生まれ織田家を支える

織田信光は永正12年(1515年)、織田弾正忠家の当主・織田信定の子として生まれました。

織田弾正忠家とは、守護代の下にいた奉行の一族で、織田氏の中で際立った存在ではありません。本流は伊勢守家から大和守家へ。弾正忠家はその家臣筋に過ぎませんでした。

しかし、にわかに状況が一変します。

信光の兄であり、織田信長の父でもある織田信秀が他の織田家を次々に従え、今川義元斎藤道三などと争うようになったのです。弟の信光は、この信秀を補佐して活躍するのでした。

それにしても、なぜ家臣筋の信秀に、そんなことをできたのか?

もともと弾正忠家は、信秀の父・信定の代に、尾張交易圏の中心地だった津島(津島衆)を押さえておりました。要は「お金」を背景に主家をしのぐ力を得たのです。現代でも戦国時代でも資金力が物を言うのに変わりはないんですね。

ただし、信定は短命で、大永6年~7年ごろ(1526~27年ごろ)には、息子の信秀に家督を譲渡。

弾正忠家の台頭に危機感をもった大和守家の当主・織田達勝とも争いを起こしたようですが、天文元年(1532年)ごろには和睦し、信秀は尾張の実質的な支配者となりました。

以後、信秀は尾張国内ではなく、隣国で力を有する松平氏・今川氏といった勢力と対峙していくことになります。

ところで織田信光は?

ご安心ください。
戦上手の信光は、この後、戦場で活躍していくことになるのです。

 

「小豆坂の七本槍」

尾張において織田弾正忠家が急速に発展したように、隣国・三河でも松平氏が力を伸ばしていました。

信秀と同年だったとされる松平清康(家康の祖父)のもと、次々に城を落としていったと伝わります。

しかし、その一方で「反清康派」も家中にいたらしく、清康は城攻めの最中、家臣に裏切られ不慮の死を遂げます【守山崩れ】。結果として信秀にとっては「思わぬ幸運」が舞い込んだ形となり、彼は続いて東方進出を目指しました。

信秀や信光は、今川義元の弟・今川氏豊が入っていた那古野城を乗っ取ると、清康の死で混乱する松平氏の領地・西三河へと侵攻。三河の地で松平・今川氏を圧倒する戦果を挙げたと伝わります。

その過程の天文11年(1542年)。
松平氏にとって重要な拠点だった安祥城を落とした信秀は、彼らの本拠である岡崎城を目前に迫っていました。

ここを落とすことができれば、その先には豊橋や浜松への侵攻も見えてくる――地図でいったん確認しておきましょう。

◆左から織田家の清州城・那古野城・安祥城(黄色)
◆一番右が松平家の岡崎城(赤色)

一方、松平氏も黙ってはおりません。
彼らを庇護する今川義元が救援のため進出。信秀と義元は、岡崎城にほど近い小豆坂という場所で刃を交えました。

これが【第一次小豆坂の戦い】です。

戦いの詳細は関連記事(※記事末に掲載)に譲りますが、信光はここで「小豆坂の七本槍」と称される見事な働きを見せます。

彼らの活躍によって今川軍の大将は討ち取られ、退却に追い込まれたのです。

 

しかし小豆坂の戦いは一回しか行われていない!?

信光の前半生を語る上で間違いなくハイライトとなるのがこの活躍。

しかし、残念なことに「そもそも『第一次』小豆坂の戦いはなかったのでは?」という指摘もあります。

「第一次」とついているからには「第二次」があるわけですが、天文17年(1548年)に全く同じ場所で同じように織田軍と今川軍が戦った【第二次小豆坂の戦い】については、ハッキリ史実であったと考えられています。

一方、信光が活躍した「第一次」については、

◆天文11年時点で今川氏が小豆坂まで侵攻するのは不可能
◆信秀の安祥城攻略は天文16年の出来事であり、信秀側も小豆坂で戦うのは不可能

という点が指摘されており、研究者の間でも「小豆坂の戦いは第二次しかなかった」という意見が目立っているようです。

とはいえ厄介なのは「第一次」の記述が『信長公記』に登場すること。江戸時代の軍記物にしか書かれていない合戦でしたら「実在していない」で話は早いのですが、信ぴょう性の高い信長公記に書かれている以上、「第一次はなかった」という断言も難しい。

現状では新史料の発見を待つしかなく、とりあえず当時の織田信光が戦場で活躍していた――という認識自体は間違いなさそうです。

 

道三と対立 四面楚歌に陥ってしまう

ここまでの経過では、信秀が連戦連勝で、非常に順調な歩みを遂げているように見えます。

実際、その考えは間違いではありません。そう、ここまでは。

信秀は、踏んではいけない虎の尾ならぬ蝮の尻尾を踏みつけてしまいました。美濃の斎藤道三と敵対してしまったのです。

素性の怪しい身から斎藤家を乗っ取るようにして下剋上を果たし、ついには美濃一国を治めるまでに至った道三。その巧みな計略により、信秀は翻弄されます。

信秀の苦境を敏感に察知したのでしょう。
これまで和睦を結んでいた大和守織田家の家臣たちが天文17年(1548年)、清須城で反乱を起こします。

大和守織田家の当主・織田達勝と信秀の仲は良好だったと目されます。しかし、清須の老臣である坂井大膳・坂井甚介・河尻与一といった勢力が力を持つようになり、信秀に反旗を翻したのですね。

それに加えて、このころ【第二次小豆坂の戦い】が勃発し、信秀は今川相手に敗戦しました。直後に安祥城を奪い返されており、

北は斎藤
東は今川
国内は清須衆

という周囲敵だらけの四面楚歌状態に追い込まれてしまいます。

 

「信光、信長よ、二人は親子であると思え」

慌てた織田信秀は、家臣であり信長の傅役でもあった平手政秀を通じて、斎藤家と和睦。このとき信長のもとへ嫁いできたのが正室・帰蝶濃姫)です。

さらには周辺勢力の水野氏(徳川家康の母方の実家)との関係改善を図るなど、色々と手は尽くしますが、天文18年(1549年)ごろから病にむしばまれ、後継者の織田信長が一部政務を代行している様子が確認できます。

「信長が大うつけ」であったかは意見が分かれます。

しかし、ただでさえ「内憂外患」の状態にあり、さらに信長はまだ若年ですから、これではどれだけ優秀な息子だったとしても、父として、織田弾正忠家当主として、不安を感じずにはいられないでしょう。

死を目前にした信秀が頼りにしたのは、弟の信光でした。

当時、守山城主だった信光は、重臣として力を有していたからです。

一説には、信秀が「信光、信長よ、二人は親子であると思え」という遺言を残したともされており、実際に若かりし信長の後ろ盾として権力の確立を支えていきます。

別に親子と言わずとも、もともと血の繋がった叔父と甥ではないか――そう思われるかもしれませんが、当時は兄弟でも(だからこそ)激しく権力争いをする時代です。

実際、織田信長は後に弟の織田信勝織田信行)に二度も裏切られ、最終的に謀殺することで事態を収拾しており、父の信秀としては信光と信長の結びつきを強くすることで少しでも衝突の回避を願いたかったのでしょう。
しかし……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-織田家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.