織田信長は戦国大名としては珍しく、戦場で自ら前に出ていくタイプです。
若い頃は特にその顕著が強く、
【村木砦の戦い】では先頭で指揮をして、
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【稲生の戦い】では一騎打ちをするほど。
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さらに【長良川の戦い】では、道三が死んで尾張に戻るとき、自らが殿(しんがり・最後尾で危険な位置)を務めるほど血気盛んな武将でした。
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皆さんによく知られたところでは【桶狭間の戦い】でも、最初はわずか6騎で城を飛び出し、熱田神宮で味方の到着を待ったと言います。
それから約16年後の天正四年(1576年)――。
信長の本質は少しも変わっておりませんでした。
味方のピンチを聞くやいなや飛び出し、わずか100の兵と共に出陣したことがあります。
それが【天王寺砦の戦い(天王寺の戦い)】と呼ばれる合戦です。
前に出過ぎて傷まで負ってしまったこの戦い。相手は天敵の石山本願寺でした。
天王寺砦の戦い~敵は本願寺
「石山本願寺が挙兵した!」
天正四年(1576年)4月14日、京都滞在中の信長に急な知らせが届きました。
信長は、以下の四将に畿内の軍勢を率いて出陣させることを決断。
・荒木村重
・細川藤孝
・明智光秀
・原田直政
まずは三手に分かれ、次のように動くことを命じます。
荒木村重軍
尼崎から海上ルートで大坂へ向かい、本願寺の北・野田に砦を築く
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細川藤孝&明智光秀軍
大坂東南の森口(守口市)・森河内(東大阪市)へ砦を築く
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原田直政軍
木津の制圧に向け、天王寺に砦を築く
ある程度戦が長期化することを見込んで、足がかりとなる拠点を作らせたというところでしょうか。
浅井朝倉や武田家など、周囲から強烈なプレッシャーを受けていたこれまでとは違って、当面のところ近隣の敵に邪魔されるおそれもありません。
「今度こそ石山本願寺と決着をつけよう!」という意気込みも感じられます。
なお、原田直政とは、それまで「塙直政(ばん なおまさ)」と表記されていた人物です。
天正三年(1575年)夏に信長が朝廷に対し、家臣たちへ名族の姓を賜るよう願い出た頃(信長公記123話)、直政にも「原田」の姓が許されたと考えられています。
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ターゲットは三津寺なり!
村重や光秀らの家臣団は、ほどなくして4つの砦を構築。
対する本願寺は
・楼岸(ろうのきし)
・木津
など複数の場所に砦があり、織田軍は最前線となる天王寺砦を主要拠点としました。
ここへ明智光秀が入り、後からやってきた佐久間信栄(信長の家老・佐久間信盛の息子)も合流します。
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そして5月3日、いよいよ織田軍から攻撃を仕掛けました。
ターゲットは、楼岸と木津の間にある本願寺側の寺院・三津寺。
これを占拠する作戦であり、先陣が三好康長と根来・和泉の兵で、二陣は原田直政と大和・山城の兵でした。
康長は前年に織田氏へ降ったばかりの新参、かつ石山本願寺との和睦を仲介した人物でもあります(本連載127話)。
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これに対し、本願寺方は一万もの兵を繰り出してきて、織田軍を包囲し、散々に鉄砲を撃ちかけてきました。
もはや宗教団体というより戦闘集団――ただし、そこにいたのは宗徒たちだけでなく、鉄砲のプロ・雑賀衆(さいかしゅう)だったようです。
恐るべき鉄砲集団・雑賀衆
雑賀衆というのは、現在の和歌山市付近で独自勢力を持っていた傭兵集団のことです。
いち早く新兵器の鉄砲を導入し、数と練度を高めていました。
一般的に鉄砲伝来は天文12年(1543年)とされます。
それ以前から入っていたと指摘する声もあり、雑賀衆は日本でもかなり早い段階から鉄砲を取り扱い、独自のポジションを築いていったとされます。
なぜそんなことができたのか?
というと、雑賀衆の本拠地は作物の育ちが悪いため、海を通じた【九州―四国―和歌山】という交易が昔から盛んで、そうした流通ネットワークの中で鉄砲も早い段階から入ってきたというのです。
もう少しだけ見ておきますと、雑賀衆と本拠地を隣接する【根来衆】もまた鉄砲傭兵集団として恐れられており、彼らは織田信長だけでなく豊臣秀吉とも敵対しました。
織田軍や豊臣軍に攻められた【紀州征伐】では、かなり奮戦。
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先の話になりますので詳細は上記の記事にお譲りしますが、いずれにせよ石山本願寺に籠もる雑賀衆は非常に厄介な存在でした。
なんせ彼らは、建物の中にいる限り、火縄銃唯一の天敵である雨も関係ありません。
包囲された織田軍の被害は大きく、原田直政を含む武将数名が討死してしまいました。先鋒の三好軍が崩れ、動揺した原田軍も奮闘しますが支えきれず……という流れだったようです。
兵の死傷者数については『信長公記』に記載がないのですが、相応の数だったのでしょう。
この知らせを受けた信長は、直ちに出陣命令を出し、自らも出馬するのでした。
もう待てない! 3,000の兵で救出へ
天正四年(1576年)5月5日、信長は天王寺砦の味方を救援するため、急遽出陣を決めました。
あまりに急なことだったため、本人は湯帷子(※麻製で単の着物・浴衣の原型)姿のままで、後についていった兵はわずか100人程度だったといいます。
この日は若江(東大阪市)に着陣し、翌6日も駐留。後続を待ちながら軍を編制していました。
信長は当初、さらに数日間は兵が集まるのを待つ予定だったようですが、天王寺砦から
「五日、いや三日も支えきれない」
という続報を受け、7日に3000ほどの兵で現地へ急行します。
そして自軍を三段に分け、住吉方面から攻撃しました。
編成は以下の通りです。
・先陣
佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝、若江衆
・二陣
滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守就
・三陣
信長の御馬廻衆
この他、荒木村重にも先陣を命じていましたが、彼は「私は木津方面の守備にまわりましょう」と断ったのだとか。
信長はこの事に対し、後年『村重を先陣に入れなくてよかった』と回想しています。理由はまた後々。
足を負傷しながら「攻撃を続けよ!」
天王寺砦の救出に向かった信長は、現地に着くや先陣の足軽勢に混じり、指揮をしていたといわれています。
精神的に追い詰められ、士気が下がっていたはずの味方の砦に、自ら先頭に立つ姿を見せることで、鼓舞する意味合いがあったのかもしれません。
しかし、これは危険なことでした。
前に出るということは、すなわち敵の標的になりやすいということ。
事実、信長はこのとき、銃撃を受け、足を負傷しています。
幸い、大怪我にはならずに済んだようですが……一歩間違えば、日本の歴史が大きく変わっていたでしょう。
大坂方は鉄砲を撃ち続けてきましたが、織田軍が押し返して切り崩し、なんとか天王寺砦の味方との合流に成功。
それでもなお危険な状態でした。
数で上回っているのは依然として大坂方です。敵が引かないと見て取った信長は、陣容を整えてもう一戦することを決断します。
家臣たちからは反対の声が上がりました。
が、信長は
「ここまで敵の間近に迫れたのは天の与えた好機だ! 勢いに乗るべき!」
として、さらなる攻撃を命じるのです。
勝利すれど原田一族は追放の憂き目に
やはり信長自身の出馬が大きかったのか。
織田軍の士気は回復したようで、大坂方を木戸口まで追い詰めると、2700もの首を挙げたといいます。さすがに誇張が入ってそうですが、天王寺砦の味方も、織田軍も、窮地から脱した喜びが大きかったのかもしれません。
この後、石山本願寺周辺の十ヶ所に砦を造らせ、それぞれに将兵を配置。
中心となる天王寺砦には、佐久間信盛親子・松永久秀親子をはじめとした複数の武将を残し、さらに海上も警戒させました。
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警戒を強めつつ、信長は6月5日に大坂を離れます。
同日に若江へ宿泊し、翌6日は槙島城(宇治市)へ立ち寄りました。以前、信長が足利義昭と最後に戦った場所でもあります。
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信長はこの城を、井戸良弘に与えます。
良弘は大和の筒井氏に仕えていた人で、この時期は原田直政の家臣になっていました。
『信長公記』には細かな記載がないのですが、直政の死後、原田一族は追放処分となり、良弘がその捕縛などで功績を挙げたからだと考えられています。
戦死した原田の一族が、なぜそこまで辛い処遇にされたのか。史料には残されておりませんが、「たかが一揆勢に過ぎない民衆に殺され敗北したこと」に対し、信長が怒りを覚えたからだという見方があります。
【長島一向一揆】や【越前一向一揆】とは違い、【雑賀衆】の籠もる石山本願寺の怖さを、信長はまだ真に理解できていなかったようです。足を負傷しているんですけどね。
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安土への帰還後は……
信長自身は一度京都の二条・妙覚寺に戻った後、7日には安土に帰還しました。
その後は安土城の普請に関する指示を出し、働いた者に金銀や唐物(中国からの輸入品)を下賜するなど、平常に戻っています。
また、同時期に名物「市の絵」を丹羽長秀が召し上げ、「瀟湘八景」を羽柴秀吉が手に入れてきたので、信長は彼らにそれぞれの所有許可を出したとか。
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重臣に名物を与えたり、所有する許可を出すことにより、「領地を与える以外にも、褒美や名誉になるものがある」と示す意味があったのでしょうね。
信長もある程度、褒賞のための領地は残しています。
が、勢力圏が広がればいずれ限界がきます。茶器や絵画などの価値を他ならぬ信長が認めることで、家臣たちに新たな価値観を与えようとしたのでしょう。
時系列としてはもう少し後の話になりますが、”滝川一益が領地よりも茶器の「珠光小茄子」を欲しがった”というエピソードが有名ですよね。
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おそらくその頃には、茶器などに大きな価値を感じる織田家臣が増えていたことでしょう。
次回は、信長が”とあるもの”を造らせるきっかけになった戦闘のお話です。
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【参考】
国史大辞典
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