織田家 信長公記

天王寺砦の戦いで信長撃たれる! 雑賀衆の怖さよ~信長公記136・137話

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もう待てない! 3,000の兵で救出へ

天正四年(1576年)5月5日、信長は天王寺砦の味方を救援するため、急遽出陣を決めました。

あまりに急なことだったため、本人は湯帷子(※麻製でひとえの着物・浴衣の原型)姿のままで、後についていった兵はわずか100人程度だったといいます。

この日は若江(東大阪市)に着陣し、翌6日も駐留。後続を待ちながら軍を編制していました。

信長は当初、さらに数日間は兵が集まるのを待つ予定だったようですが、天王寺砦から

「五日、いや三日も支えきれない」

という続報を受け、7日に3000ほどの兵で現地へ急行します。

そして自軍を三段に分け、住吉方面から攻撃しました。

編成は以下の通りです。

・先陣
佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝、若江衆

・二陣
滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、稲葉一鉄、氏家直通、安藤守就

・三陣
信長の御馬廻衆

この他、荒木村重にも先陣を命じていましたが、彼は「私は木津方面の守備にまわりましょう」と断ったのだとか。

信長はこの事に対し、後年『村重を先陣に入れなくてよかった』と回想しています。理由はまた後々。

 

足を負傷しながら「攻撃を続けよ!」

天王寺砦の救出に向かった信長は、現地に着くや先陣の足軽勢に混じり、指揮をしていたといわれています。

精神的に追い詰められ、士気が下がっていたはずの味方の砦に、自ら先頭に立つ姿を見せることで、鼓舞する意味合いがあったのかもしれません。

しかし、これは危険なことでした。

前に出るということは、すなわち敵の標的になりやすいということ。

事実、信長はこのとき、銃撃を受け、足を負傷しています。

幸い、大怪我にはならずに済んだようですが……一歩間違えば、日本の歴史が大きく変わっていたでしょう。

大坂方は鉄砲を撃ち続けてきましたが、織田軍が押し返して切り崩し、なんとか天王寺砦の味方との合流に成功。

それでもなお危険な状態でした。

数で上回っているのは依然として大坂方です。敵が引かないと見て取った信長は、陣容を整えてもう一戦することを決断します。

家臣たちからは反対の声が上がりました。

が、信長は

「ここまで敵の間近に迫れたのは天の与えた好機だ! 勢いに乗るべき!」

として、さらなる攻撃を命じるのです。
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