わずかな手勢と共に本能寺で宿泊していた織田信長。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
そこへ1万の軍勢で襲いかかった明智光秀にとって最大の痛手は、信長の遺体や首を確保できなかったことであろう。
遺体は、燃え盛る本能寺と共に灰になったと目されており、当時の人々もそれで納得できたであろうが、織田家の人間にとって【事実確認の有無】は最大の感心事である。
「もしも生きていたら?」
少しでもそんな風に考えた途端、光秀に味方することは難しくなるはず……。
そんな折、中国地方で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)はコトのあらましを知るや、すぐに行動を起こす。
大いなるうねりを伴い歴史は動こうとしていた。
急転直下
◆荒木村重により有岡城に幽閉されたとき、信長に「裏切った」と勘違いされた黒田官兵衛。
なぜ荒木村重は信長を裏切ったのか?妻子を無惨に処刑され道糞と蔑まれた生涯52年
続きを見る
本能寺の変の直後、秀吉に向かって「天下を狙うチャンスですよ」と囁いたなんて逸話がありますが、実際のところ官兵衛は秀吉に恩こそあれど、信長に思い入れを持つ由来ってあまりないですよね。
黒田官兵衛は本当に天下人の器だったか?秀吉の軍師とされる生涯59年まとめ
続きを見る
だから、こんな逸話も残されているのでしょう。
途端にスイッチが入っちゃう秀吉さんも、なかなかのキャラクターに成長してくれそうで。
大返し
◆毛利と和睦を済ませた秀吉は、高松城主・清水宗治に切腹をさせると一気に中国大返しを進めたと言います。
清水宗治が武士の鑑と称された理由~秀吉の備中高松城水攻めに対し籠城からの切腹
続きを見る
そこでいつも問題となるのが、毛利側は「本能寺の変を把握していたのかどうか?」という点。
最近の説では、毛利サイドも知っていて、豊臣秀吉に恩を売るカタチであえて追撃をしなかった――。
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
なんて見方もあるのですが、はてさて。
※続きは【次のページへ】をclick!