弘治元年(1555年) ――。
斎藤道三は、大桑城を出て鶴山へ。
嫡男・高政(斎藤義龍)との対決が迫っていました。
明智光秀は、叔父である光安を追って鶴山へ行きます。
尾張では帰蝶と信長が苛立ち隠せず
そのころ尾張の清須城では、信長がうろうろしながら、扇で自分の脚をバシバシと叩いています。
信長は動揺したり、ストレスがたまったり、考え事をするとなると、やたらと歩き回ったり、手の先を動かしたり、ものに当たりますね。
染谷将太さんは、彼自身を信長像に反映しているようです。そこを見越してのキャスティングでしょう。
若いとか、丸顔とか、こんなケージに閉じ込められた野生動物じみた動きは嫌だとか。そういう意見はあるようですが、これがこの作品の目指す変革なのでしょう。
信長がイライラしている原因は、義父・道三のこと。
帰蝶が写経しつつ、助けるだけ無駄だと言うと、信長は「むざむざ見殺しにするつもりか!」と苛立ちます。
この夫婦に萌えるという意見は、理解できなくもありませんが、こんな信長が乙女ゲーに出て来るのかという話です。
一番つらいのは、父と兄が争っている帰蝶でしょうに。そういうことをこの信長は気にしない。帰蝶だからなんとかなっていますが、大抵の方はこんな信長が夫だと嫌になると思います。
帰蝶はムッとしつつ、負けとわかった戦に巻き込まれるのは愚かと言い切る。
兵力差からして勝ち目はありません。
道三は2000、高政は12000。
道・天・地・将・法……いくつかの要素で道三が上回ろうと、これではさすがに厳しい。
信長は扇を叩きつけながら(やはり物に当たるので現代人ならばパンチバッグが必要)、鶴山に行く宣言をします。
道三には戦での借りがある――そうです、背後から織田彦五郎ら敵対勢力を牽制していました。
信長の尾張統一に立ちはだかった織田信友(彦五郎)策士策に溺れる哀れな最期
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この信長は、やっぱり理詰め野郎ですね。
自分が義父に認められた喜び。帰蝶の父だということ。そういう心理面でのサポートも、ある。
けれどもそういう感情での恩返しではなく、あくまで理詰めで助けると言うわけです。
まあ、いいんだけどさ。帰蝶からするとどうなんだって話ですよね。
甘ったるい言葉で帰蝶を慰めて、抱き寄せて、愛するそなたの父だから……という展開であれば、ハッシュタグが盛り上がり、ファンアートもどっさり出てきて、ネットニュースの一丁あがりです。
けれども、本作は萌え仕草を踏んづけて燃やして駆け抜ける。放映後すぐに視聴者の声を拾って書く人はやりにくそうです。
今の朝ドラが好例ではないでしょうか。美男美女がやたらとイチャコラして、ギャグや頻繁な絶叫を入れるとテンション上がって書き込みする。そういう手癖ばかりに頼ると危険。本作はそこを考えているとみます。
帰蝶は夫の援軍に喜ぶどころか、顔を歪め、書いていた書を丸めます。帰蝶も物に当たるわけです。
「みな、愚か者じゃ!」
帰蝶は、父だけではなく、夫の命まで危険に晒されかねないのです。
それにしても、川口春奈さんはうまい。誠実です。
顔をしかめるとき美人に見えるよう、そこを気遣う俳優はいるもの。でも、彼女は自分を美しく見せるよりも、帰蝶になることを重視していると感じます。
川口さんの帰蝶が見られる。これぞ眼福でござろう!
長良川を挟んで親子が対峙
美濃の戦場。長良川の北岸では――。
「おもしろや この宿は」
道三は数珠を触りつつ、そう口ずさんでいます。川を渡って攻めよう、と家臣は言っているものの、彼自身は黙って歌うだけです。
これは異常なことではある。
渡河は危険な局面です。美濃という清流の国で戦ってきた道三が、そこを知らないはずがない。
一方で南岸で戦に備える高政は――。
竹腰道鎮が、600の兵で先陣を切ると言い切ります。
高政は「よかろう」と許可を出し、二番槍として出陣すると言い切ります。
高政は吹っ切れているようで、家臣はそうでもない。今、向こう岸にいる敵とは、この間まで酒を飲み交わしていた相手です。殿の顔を見れば降参するであろうと言うものの、なかなか難しいものがある。
稲葉良通は、道三をどうするのか高政に確認します。
「殺すな。生け捕りにせよ」
「親殺しは外聞が悪うございますからな」
そう稲葉良通はそう返してしまい、
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気まずそうに頭を下げますが……これは“馬鹿”の故事状態ですね。
「馬鹿」
『キングダム』でもおなじみの、始皇帝崩御後、二世の胡亥(こがい)が皇帝となります。この君主のもとで権勢を振るったのが、宦官・趙高(ちょうこう)です。
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趙高は、皇帝の前に鹿を連れてきます。そして「馬でございます」と述べる。
皇帝が「これは鹿だろう」と周囲の家臣に語りかけるのですが……。
「いえ、馬でございます……」
家臣はそう返しました。
権力に阿(おもね)るということは、鹿を馬だと言い切ることでもある。
稲葉以下家臣は、高政は鹿を馬だと言っているのだとわかってはいる。
けれども、指摘できない。
このことをよく覚えておきたい。
NHKにも「えらい人が鹿と言うことを馬と言うわけにはいかない」みたいなことを発言した偉い人がいましたっけ……。
告発したり、自分こそが正義と言いつのったりしない。そういう自我がない、顔色を伺う相手に「ああ、大好きだ、あなたたち」なんて言い出す人がいたら、それはもう危険だということは、こういう時代ならば認識した方がよろしいでしょう。
これは本来、歴史好きなら基礎中の基礎だと思います。
諫言耳に逆らうと言います。
部下に敢えて諫言を言えと促す者こそ、人の上に立つ器量があるとされるものです。
逆に、側近政治は甘い言葉を主君に吹き込むところから始まる。中国史では、しばしば趙高のような宦官の専横が問題視されます。
悪徳宦官は、皇帝を操縦するテクニックを身につけている。仕事をしていてストレスが溜まっている皇帝を甘やかし、仕事を代わりにするとアピールするのです。そうしてスポイルしていく。
皇帝は、部下とは自分にとって甘ったるいことを言うものだと信じ込む。皇帝に諫言を言おうものならば、最悪の場合、命をも失いかねないのです。
道三と高政の差は光秀に対する態度でわかる
以前も申し上げましたが、道三と高政親子の知性の差が、そこまであるとは思えません。
違いがあるとすれば、諫言を受け入れるのかどうかということ。これは光秀への態度で見て取れます。
道三は、光秀が「ハァ?」だの「嫌いです!」と断言しようが、耳に痛い美濃の停滞について直言しようが、「正直者だ」と信頼を寄せている。
道三が光秀を重じているのは、その正直さゆえ、諫言でも平然と言ってくれるから、自分を磨く砥石として使えると見込んでいるのです。
光秀に信長を見ていると託すのも、自分と似ている信長ならば、光秀を砥石にできると信じているのでしょう。
一方の高政は、光秀の言葉に毒を嗅ぎ取っただけで、責めるようなことをポロリと言ってしまう。
高政に寄せる光秀の信頼は、嘘偽りはないものであったとは思えるのです。けれども、どこかでスポイルされてしまったとわかります。
自分に高貴な血が流れていると吹き込んだ、土岐頼芸か?
あるいは忠実なようで、甘い毒を吹き込み、操っている稲葉良通か?
このレビューを書いていると、一体何と戦っているのかと自分でも考え込んでしまうのですが。
先入観だとは思うのです。
本作の光秀について、こんな意見もあります。
「ハァ? なんて目上の人に言うことはありえない!」
何がありえないのか。どの時代だって、光秀のように本音を漏らしてしまう人が、多くはないけれど存在する。そしてそんな光秀を、飾らず正直だからとむしろ評価する道三のような人物もいる。
「道三は結局、家督を譲ったら譲ったで文句を言われる。何をしようと文句や批判はあるんでしょ? いちいち批判されるっておかしい。そういう細かいことを批判しないよう、自分は肝に銘じます」
諫言は気に入らないと遠ざける。あるいは自分の上に立つ人も、きっと諫言は嫌いだろうと、作り笑いを浮かべる。
そして、諫言を敢えて言う、批判をする人を「空気を読めない奴っているよね」と冷笑している。そういう姿勢が見て取れるわけですが、どうにも危うい。
普通の、今までの、2010年代のノリ。軽薄で、騒がしくて、きゃっきゃうふふ、ほっこりきゅんきゅんできるものが好きならば、それでよかったのかもしれません。
しかし時代は変わります。
過去のことはさておき、考え方も何もかも、変えていかないと。そうしないと本作はどうにも読み取れない何かがある。
掛かり太鼓や掛け声にも本質がにじみ出る
稲葉良通は、織田信長が国境の大良に到着したと言います。道三軍との合流前に叩くと言います。
そんな高政には、気になることがあります。
「明智の一党はまだこちらに参陣せぬか?」
「この期におよんで参陣なきとは、道三方へ寝返ったと見るべきかと……」
そう伝えられ、高政は不愉快そうではあります。
彼は親友を失ったのです。
北が道三、南が高政――かくして親子は川に分け隔たれます。
采配を振る高政。掛かり太鼓が鳴らされています。
進軍する兵の声は「エエヤアエエ! エエヤアエエ!」。
この掛かり太鼓にせよ、掛け声にせよ、相当大変なことだと思うのです。
いつも同じではなくて、勢力ごとに変えねばならない。そうでないと、敵と誤認してあやうい。
道三と高政は、同じ斉藤家でも変えてきていると。こういうことって、些細なようで実は結構危険です。父子で対立した時点で、高政はいろいろと危険な方向へ進んでいる……。
それでいて、進軍を励ましつつ、動きをきっちりと取れるようにしなければなりません。
フィクションにおける【兵法書】とは、読めば絶対勝てるようなスゴいことが書いてあると思われがちですが。
太鼓をどう叩くかとか。旗印をどうやって振るべきかとか。そういうことをまとめているのです。まとめて、後任者に引き継ぐと。そうしないと、軍隊を動かそうにもうまくいかないものなのですね。
三国志フィクション作品による「諸葛亮 被害者の会」陳寿が最も哀れ也
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なので、太鼓や旗の動かし方をみろと兵法家は言うわけです。そこに乱れがあると、統率がお粗末だとわかる。
これって軍隊だけのことでもなくて、ドラマもそうだと思います。私は、細かいところにつっこんで、大筋追わないアホ扱いをよくされます。
それは全くその通りなのですが、細かいところにもドラマの破綻が見て取れます。エキストラの動きがおかしいとか、照明効果とか、その辺に出る。その点本作は、統率が盤石です。
こんなご時世だから、このドラマがどうなるかは気になるところではあります。もちろん最後まで見たい。
けれども、たとえそうならなかったとしても、ここまで統率が取れたとなればよいことなのです。
こういう一軍をきっちり動かせるだけの地力をNHKは鍛え上げた。
こんな時代でも、その未来はそこまで暗くはない。ただ、そこで慢心はできません。走り続けねば、その場に止まることはできません。
かくして、運命の「長良川の戦い」は早朝に始まりました。
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