天正4年(1576年)5月3日は尾張の戦国武将・原田直政(塙直政)の命日です。
あまり著名ではないこの方、実は大河ドラマ『麒麟がくる』でなかなかインパクトのある場面に登場しています。
染谷将太さん演じる織田信長が、戦場で討ち死にした原田直政(塙直政)とその家臣を罵倒し、殴る蹴るの暴力を浴びせたのです。
一体あれは何事だったのか?
そもそも原田直政という武将はどんな人物だったのか?
ドラマでは直政の人物像が描かれていなかったため、そう疑問に思われた方も少なくなかったでしょう。
実はこの直政、戦場で先頭を駆け回るタイプではなく、政治や外交なども含め、万能になんでもこなす方でした。
織田家では、光秀や勝家、秀吉など、他に個性豊かな武将が多いため、どうしても地味な存在となりがちですが、決して罵倒されるだけの無能な方でもなかったのです。
本記事で、原田直政の生涯を振り返ってみましょう。
原田直政は信長親衛隊・赤母衣衆の出身
原田直政は、最初の名字を「塙」といいました。
「はなわ」とも「ばん」とも読めますが、「ハン」や「伴」と書かれている一次史料のほうが多いので、おそらく「はん or ばん」でしょう。
出身は尾張の春日井郡。
大まかにいうと現在の愛知県北西部です。
生年は不明ですが、永禄十年(1567年)に設置された織田家の【赤母衣衆】に後から加わったとされています。
赤母衣衆とは前田利家がリーダーを務めたこともある信長の直属部隊(親衛隊)で、そこで仕えているからには織田家で一定の信用を得ていたことは想像できます。
気になるのは「母衣」という言葉でしょうか。
本来は流れ矢を防ぐため背中につける布のことで、馬に乗ると風をはらんで膨らむため、風船のように見えます。
下記画像のような絵画あるいは現代のマンガや映画などでご覧になられた方も多いかもしれません。
実際に、母衣は遠目からでも目立つので、いつしか戦場で使番が用いる名誉ある装備として扱われるようになります。
なぜ名誉か?というと、一分一秒を争う戦場では伝令一つとっても武勇に優れた者が選ばれ、しかも目立って危険な役目だったからです。
織田家には【黒母衣衆】もいて、こちらは佐々成政がリーダーを担ったこともありました。
後に利家と成政は北陸の覇権を巡って争うことになりますので、何か運命的なものも感じますね。
ちなみに『黒と赤のどちらが偉いのか?』なんて疑問もお持ちになられるかもしれませんが、敢えて言うなら黒でしょうか。
信長麾下では、黒母衣衆よりも赤母衣衆の方が若い部隊だったと目されています。
同じ家臣の息子たちでも、
兄=黒母衣衆
弟=赤母衣衆
とキッチリ分けられているため、信長の頭の中では黒母衣衆がやや上だったような気がします。
母衣衆の説明が長くなってしまいました。話を直政に戻しましょう。
馬廻衆から徐々に官僚的な仕事へ
原田直政は、永禄年間(1558年から1570年)の大部分を赤母衣衆の一員として過ごしたためか、この時期の動向についての記録はあまりありません。
所領も少なく、部隊を率いるような身分ではなかったのでしょう。
これだけでは少々イメージしにくいので、同じく赤母衣衆だった前田利家に注目しますと……。

前田利家/wikipediaより引用
永禄十二年(1569年)に信長の命で家督を継いだ利家は、このとき石高6,000石ほど。
四男から前田家当主となる大出世を果たし、動員できる兵数は150人ぐらいです。
となると、おそらく利家よりも所領が少なかったと思われる直政の動員力は推して知るべし。文字通り単騎駆けの武者だった可能性すらあります。
母衣衆の立場は悪くないものの、兵数においては柴田勝家などの古参武将に遠く及びませんでした。
そんな直政が、吏僚(官僚)的な仕事を少しずつ受け持つようになったのは永禄十二年頃からのことです。
鉄砲調達を命じられたり、信長への客人を取り次いだり。
明智光秀などとともに寺院へ段銭(たんせん・臨時に課される地域限定の税金)を課したりしています。

明智光秀/wikipediaより引用
おそらくこの頃は、直政の名も知る人ぞ知る存在になっていたでしょう。
同じく永禄十二年(1569年)の夏、公家の山科言継(やましなときつぐ)が岐阜を訪れた際、織田家の家臣たちへ挨拶回りのようなことをしており、その中に原田直政も含まれているのです。
山科言継は、もともと三河の徳川家康を訪ねようとしておりました。後奈良天皇の葬儀費用を頼もうと思ったのです。
そこで、その途中、信長に挨拶しようと、(そして、おそらく少しの下心を持って)岐阜に寄り道したときのことでした。
話を聞いた信長が
「今、家康は駿河へ出陣中ですし、この暑さの中、長旅を続けるのは大変でしょう。私から使者を出すので、岐阜でしばらくお待ち下さい」
と打診したため、言継はその時間を使い、より多くの織田家臣たちと交流したようです。
いわば予定外の面会だったわけですが、その訪問先の一つに選ばれた直政の存在感は、決して軽いものではなかったのでしょう。
京都の政治実務を担当
原田直政は、信長の生涯を描いた『信長公記』にも登場します。
例えば元亀二年(1571年)10月に京都で行われた市民への「貸付米」を行っています。
貸付米とは読んで字の如く、織田家から市民に米を貸す代わりに、その利子を毎月朝廷に献上することにより、彼らの財政逼迫を援助しながら経済を回そうとしたのです。
この時期は明智光秀や島田秀満なども京都の政治に関わっていたため、直政は彼らと協力して仕事をする機会もたくさんありました。
ときには、羽柴秀吉や松井友閑などとも連携して動いています。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
この時点では赤母衣衆の一人に過ぎなかった直政が、彼らと肩を並べているのは不思議なものですが、日頃の仕事ぶりや態度から「問題ないだろう」と信長に判断されたのでしょう。
考えてみれば、信長は若い頃から身分の上下を問わない人付き合いを好んでいました。
信長公記にも載っている有名な話ですと、以下の記事で名もなき家臣や老人たちにも積極的に話しかけています。
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恐怖の火起請と信長|信長公記第21話
続きを見る
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仮装パーティで信長はどんな格好?|信長公記第27話
続きを見る
おそらくはその中で
「このあたりに有望な若者はいないか?」
というような話をしたり、あるいは
「コイツは仕事が出来る、名前を覚えておこう」
といった風に、人材を見つけていったのではないでしょうか。
信長が目指していた政治の最終形はわかりませんが、とてつもなくスケールの大きなことを成し遂げようとすれば、とにかく人材が必要です。
優れた者をより多く見出すには、生まれや元の身分にこだわらず、自分から積極的に探すことが肝要である、という信念を持っていたのでしょう。
話をする形式にもこだわった様子がなく、ときには公家相手でさえ立ち話で済ませることもありました。工事現場の指揮を執りながら……というように、他に要件が重なっているときに限られましたが。
また、信長は個々人の得意・不得意に合わせて仕事を割り振っていました。
同じ馬廻の中でも、戦場や日頃の警備といった武の面だけを担当した者もいれば、直政のように政治的な仕事を兼任した者もいます。実に柔軟な発想ですね。
もっとも信長の場合、父・織田信秀が急死したことなどから家督相続前後のトラブルが長く続き、古くからの家臣を盲目的に信用することができず、自分で人材発掘を行うところから始めなければならなかった……というのもあるかもしれません。
常人ならば不利が長引くところを、自らの行動力によってカバーしてしまうというのが、信長の長所ですね。
法隆寺のトラブルとは
閑話休題。
実は原田直政が、戦で功績を上げたという記録はありません。
元亀年間は、織田家の戦国史が大きく動いた期間です。
浅井長政と決裂した【金ヶ崎の退き口】や【姉川の戦い】、そして足利義昭との最終決戦となった【槙島城の戦い】、はたまたその直後に行われた浅井・朝倉との決着など、多くの合戦が行われました。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用
しかし、戦場で華々しく直政の名が出てくることはありません。
軍事的には馬廻衆の一員だったようで、その代わりに政治・外交面では立場も向上していたのでしょう。
まだ足利義昭との対立が決定的ではなかった元亀四年(1573年)初頭には、信長と義昭の間で使者を務めています。
ただ残念なことに二回目の使者に行こうとしたところ、眼病を患い、松井友閑らに代わられてしまいました。
眼病は深刻なものではなかったようで、すぐに職務に復帰。
義昭との関係を改善するため直政は、信長が差し出そうとした人質(信長の息子)に付き添い、上洛します。
この人質提出は義昭との交渉が決裂したために成立しませんでしたが、直政には次の仕事がありました。
法隆寺における東寺・西寺の争いです。
戦国史ではあまり注目されませんが、法隆寺内では「学侶」と「堂衆」の対立が発展し、数十年にわたって険悪な関係が続いていました。
「学侶」というのは、仏教関連の学問や祈祷に専念する僧侶のこと。公家や武家などのうち、身分の高い家から僧侶になった人が多数派でした。
一方の「堂衆」は、学問の他に寺院の運営や実務も担当する僧侶です。学侶よりも身分の低い家の出身者が多かったとされています。
「エリートvs庶民」という、いかにも対立が生まれそうな構図ですね。
学問も実務も寺院にとっては大切な存在ですが、法隆寺では東寺と西寺における役割が明確ではなく、戦乱の最中にどんどん険悪になってしまったのでした。

法隆寺金堂/wikipediaより引用
そんな折に信長が上洛し、畿内随一の勢力を築きつつあったことで、東寺・西寺双方から訴えが届いたのです。
信長は双方に担当者をつけて問題解決を図り、直政は東寺担当の一人となりました。
長年に渡りこじれた問題ですから、もちろんそう簡単には決着しません。
ただ、難問を任された直政の立場が相応のものだったことは明確ですね。
光秀や貞勝らと共に山城守護へ
元亀四年(1573年)4月、足利義昭と信長は一時的に和睦を締結。
義昭の側近から信長の家臣たちに向けて、起請文が提出されました。

足利義昭/wikipediaより引用
その宛先が原田直政と滝川一益・佐久間信盛の三人になっており、やはり当時の直政が重要な立ち位置とみなされていたことがわかります。
しかし程なくして義昭は【槇島城の戦い】に敗れて京都から追放され、浅井・朝倉両氏が滅びると、直政は織田家吏僚(官僚)としての面をさらに強めていきます。
大舞台としては、天正二年(1574)3月に信長へ蘭奢待の切り取りが許されたとき、奉行の一人に任じられたほどです。

天下一の名香として知られる蘭奢待/wikipediaより引用
切り取り自体は3月27日に行われたのですが、直政は21日から現地に赴いています。事務手続きや諸々の手配を受け持っていたのかもしれません。
ほか岐阜にやってきた津田宗及に信長の命令を伝えたりもしています。
仕事をきちんとこなしてきたことが評価されたのか、直政は同年5月、山城守護に抜擢されました。
任地は槙島城、義昭が追放直前に立てこもっていた場所です。
守護という名ではありますが、直政の職権は山城全域ではなく、宇治川以南に限られていました。これは京都市中の政務が村井貞勝に任されていることからもわかります。
そのため、直政は宇治川以南の国人たちに本領安堵などをしており、京都市中のことについては実権がなかったと思われます。
余談ながら、山城北部については明智光秀が支配権を持っていました。
山城では北から
・光秀
・貞勝
・直政
というように、主な担当者が分かれていたのですね。
桂川以西については細川藤孝が支配権を持っていたため、彼との関わりもたびたびみられます。

細川藤孝/wikipediaより引用
人の多い場所ほど、政治的な対立だけでなく、日常のトラブルや訴訟も多くなるもの。
信長は、彼ら四人の職権が及ぶ範囲を限定することで、できるだけスムーズな政務処理を狙ったと思われます。
大和国の守護も兼務することに
天正三年2月、原田直政は大和国の守護も兼務するように命じられました。
その直前に信長は、細川藤孝宛てに「石山本願寺との戦に備え、丹波の地侍を動員するように」と命じていますので、直政の大和守護就任も石山本願寺対策の一環でしょう。
といっても、大和は非常に複雑な土地です。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも【松永久秀vs筒井順慶】の対立が描かれておりましたが、もともと大和は興福寺その他の有力門徒たちが武装化・乱立していたという特殊な土地です。

絵・小久ヒロ
彼らの所領を強引に奪おうとすれば、本願寺と同時に大和全体と敵対することになり本末転倒。
そこで信長は、直政に所領よりも軍事指揮権を多く与えました。
筒井氏はこのころ(元亀二年)すでに織田家に従っていましたので、妙に刺激しなければ従わせることができる……と考えたのでしょう。
大和における最大勢力の筒井氏が従えば、その他の国衆も倣います。
松永久通(久秀の息子)も、後述する天王寺合戦の際、直政の麾下にいましたので、直政の下に置かれていたようです。
もっともこの大和では後に松永久秀が謀反を起こし、最悪の結果となってしまうわけですが……。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
天正三~四年にかけては、信長の命で高屋城など河内国内の城を破却したり、徳政令や寺院への連絡などもしています。
河内については、佐久間信盛が支配権を与えられるまで、暫定的に信長直属といった状態でした。そのため、河内の隣国である大和守護となった直政が、一部の職務を受け持っていたようです。
その一方で、天正三年5月21日の【長篠の戦い】では、鉄砲奉行も務めています。

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用
これは佐々成政・前田利家といった、著名な武将と並ぶ役目でした。
直政のこれまでの立場からすると、大部隊を率いて前線に立ったのではなく、小さな部隊を一つ指揮するか、あるいは鉄砲の手配や整備などを主に受け持ったところでしょうか。
直政を俯瞰して見てみると、大舞台で華やかな活躍をするタイプではありません。
そのぶん物事の隙間やつなぎ目にあたるような部分を器用にこなせたようで、いわゆる縁の下の力持ち的な重要な立ち位置です。
ゆえに権利の複雑な大和や河内で要職を任ぜられたのでしょう。
興福寺大乗院の前で一揆衆を虐殺
天正三年7月、信長は自分の官位昇進を断り、主だった家臣に官位や賜姓を願い出ました。
『信長公記』には載っていないのですが、このとき原田直政も備中守の官職を授けられたと考えられています。
この時期を境に、文書上で「原田備中守」と呼ばれるようになるからです。
他には武井夕庵や松井友閑なども、このときに官職を授かっていました。信長にとって、直政が彼らと並ぶ重要な家臣であったということが、ここからもわかります。

織田信長/wikipediaより引用
直政は、少々苛烈な手段を取ることもありました。
同じく天正三年8月、信長が越前一向一揆討伐のため出陣した際、直政も従ったのですが……。
この頃、大和の興福寺大乗院の僧侶・尋憲(じんけん)が、現地へやってきていました。
大乗院の領地が越前にあったので、信長に安堵してもらおうとしたのです。
尋憲は信長に自領安堵の件を話した後、大和守護を兼任している直政にも挨拶。このとき直政は、尋憲の目の前で、200余人におよぶ一揆衆の首をはね始めたといいます。
もちろん尋憲は驚き、止めにかかりました。父の二十五回忌にあたる日なので、殺生をやめてくれるようにと頼んだとか。
この話だけ見ると残酷に思えますが、これまでの織田家が一向一揆にいかに手を焼いてきたかを考えると、厳しく釘を差しておくのもやむを得ないところがあります。
ここで反抗的な者を取り逃がせば、いつか再起されてしまう。そのたびに出陣していてはきりがなく、いずれ織田政権そのものが崩壊しかねません。
強引な手段を使ってでも悪循環を絶たなければ、解決できない問題でした。
直政がただ残酷な人物だったのなら、ここで尋憲の願い出など一切聞かずに一揆衆を皆殺しにして、さらには尋憲も殺していたかもしれません。
そうなれば興福寺との関係や心証も悪くなっていたでしょう。

興福寺五重塔
しかし、この翌年にあたる天正四年2月、直政は興福寺の薪能を見物しています。その他にも支障は出ていないので、大きな問題にはならなかったと思われます。
その後の直政は、多聞山城の修築などを行うなど、大和守護の役目も無難にこなしていました。
前述した法隆寺の東寺・西寺の争いについても引き続き関わっており、松井友閑が法隆寺方の訴えに対し、
「大和のことはまず原田直政の意向を聞くように」
と告げたこともあるほど。
松井友閑もまた地味ながら、外交における信長の右腕のような人ですから、その彼に信用されていた直政の能力も高いものだったと言えるでしょう。
派手な合戦と違い、日常の政務能力は記録に残りにくいので、憶測の域を出ないのがもどかしいところです。
しかし……。
近畿支配の一角を担ってきた直政ですが、天正四年(1576年)に突如、最期の時が訪れます。
石山本願寺との戦いで戦死
天正四年4月、信長は石山本願寺への攻撃を本格化。
原田直政も、荒木村重・細川藤孝・明智光秀らと共に本願寺包囲の一角に加えられました。
本願寺の南にあった天王寺砦を修築し、ここを拠点として戦に臨んだのです。

原田直政(塙直政)が攻撃を担当していた石山本願寺/wikipediaより引用
石山本願寺と信長が対立して既に6年ほど経っており、これほど問題が長引いた主な要因をピックアップしますと……。
1.石山本願寺自体が堅牢な要塞である
2.河川と近く、水路・海路からの補給や援軍の受け入れが容易である
3.足利義昭や浅井・朝倉氏など、反信長勢力と連携していた
4.長島や越前などの一揆衆にも指示を出しており、信長が石山に専念できないようにしていた
すでに3と4の問題については解決済みであり、いよいよ1と2、つまり最終決戦に取り掛かろうという場面でありました。
毛利からの補給線を絶ち、石山本願寺でこれ以上の籠城戦をができないように厳重な包囲を敷くという戦術です。
そこで信長は、直政と三好康長に敵拠点の一つ・三津寺の攻略を命じました。
かくして天正四年5月3日、直政は大和・山城衆を率いて三津寺攻撃を開始。
和泉・根来衆を率いた康長が先陣を務めました。
これに対し、本願寺方は1万もの兵と数千丁の鉄砲で迎撃します。
本願寺には傭兵集団として知られる雑賀衆の鉄砲部隊がおり、大河ドラマ『麒麟がくる』でも光秀がその恐ろしさを語っていましたね。

絵・小久ヒロ
彼らの攻撃は想定以上に激しく、まもなく三好康長軍が崩れてしまいます。
当然ながら直政軍もこれを支えようとします。
が、両軍共倒れとなってしまい、その混戦の最中に直政も討死したといわれています。
他の織田方も多くが戦死し、勢いづいた本願寺軍は逆に天王寺砦を包囲しました。
この砦に残っていた光秀らが援軍を要請し、急遽、信長自らがやってくるのですが、それはまた別のお話。
問題はその後です。
信長から数々の非情な処置
信長は、原田直政の一族郎党に対して苛烈な処置を下します。
まず直政の腹心だった丹羽二介・塙孫四郎が、罪人として捕らえられました。
さらには、大和の筒井順慶に命じて、直政や縁者から預かった物を提出させたり、彼らに宿を貸すことを禁じるといった命令が出されるのです。
なぜこのような非情な処理がなされたのか?
残念ながら明確な理由はわかっていません。
織田家は石山本願寺に散々苦汁をなめさせられているので、その怒りが向かったか。
直政の家臣が捕らえられ、預かり物の没収が命じられていることから、そこに何らかの因縁があったか。
あるいは、石山本願寺の攻略に手こずった佐久間信盛も後に追放という憂き目に遭いますので、やはりその辺りでしょうか。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
その一方で、直政の息子は生き残ったという話が伝わっています。
真偽の程は不明ですが、名を安友といい、父の死後は信長の下を離れていたそうです。
本能寺の変後、佐々成政・豊臣秀吉・田中吉政といった人々の下を渡り歩き、最終的には江戸で医者になっていたとか。
父が討死し、主家を離れたおかげで生き残れたと見ることもできてしまいますね。
吏僚に近かった直政がいきなり最前線に出されたことや、死後の処置など、なんともすっきりしないところがあります。
新史料発見の余地がある……と考えることにしましょう。
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【参考】
国史大辞典
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