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【信長の母・土田御前】
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彼らに信長への反抗心がみられないため、土田御前も信長を嫌っていたというわけではなさそうです。
仮に本心を隠していたとしても、子供って親族の不仲を敏感に感じ取るものですしね。
そして、ここからしばらく、土田御前に関する記録は途絶えます。
次に足跡が追えそうなのが【本能寺の変】以降のことでした。
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信長が殺されてからは?
本能寺の変が起きた天正十年(1582年)6月以降は、孫の信雄に庇護されたようです。
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それ以前は、おそらく安土城に住んでいたのでしょう。
本能寺の変が起きた際、蒲生賢秀(氏郷の父)らが安土城から自分の城である日野城へ信長の妻たちを避難させた――とされているので、この中に土田御前もいたのでしょうか。
賢秀は天正十二年(1584年)4月に死亡。
また同年同時期の小牧・長久手の戦いで織田信雄と蒲生氏郷は敵味方になっているので、少なくともこの二年の間に、土田御前は信雄のもとへ行っていたと思われます。
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信雄のところにいた頃は、化粧料(けしょうりょう)をもらっていたことが記録されています。
顔を飾る、お化粧品のことではありません。ある程度の身分の女性に与えられる生活費のことです。
領地や田畑が分けられて、そこから税などを得たり、水路の権利を相続する形で優位に立つ「化粧水(けしょうみず)」など、いろいろな形式がありました。
土田御前の場合、
「祖母の生活費を孫が出していた」
と考えれば、現代に割と近い感じかもしれませんね。
信雄の家臣や親族への所領をまとめた【織田信雄分限帳】では、土田御前と思われる【大方殿】の化粧料が【◯百四十貫文】と記されています。
【◯の部分】が一字下がって書かれているため、書き損じか破損か、あるいは訂正されたようですね。
この記録、厳密に席次や金額で並んでいるわけではないので判断しにくいところ。
他の女性の例を見てみますと。
彼女らに比べて、信長の母親かつ、信雄の祖母である土田御前の化粧料が140貫文というのは、さすがに少なすぎる感もあります。
◯に何らかの数字が入っていた、と考えるほうが自然でしょうね。
秀吉に対する抑制力はあったかも
天正十八年(1590年)7月頃に信雄が改易されると、土田御前は移動を余儀なくされます。
伊勢国安濃津にいた息子・織田信包(信長の弟)のもとに引き取られ、文禄三年(1594年)1月7日にここで亡くなりました。
その後、文禄三年(1594年)9月に、信包も改易されてしまっているので、ある意味では幸いでした。
どちらかというと、土田御前の存在が信包改易の抑止力だったのかもしれません。
信包が改易されたのは、天正十八年(1590年)の小田原征伐の際、北条氏政・北条氏直父子の助命を嘆願したのが遠因とされています。
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ちなみに、信雄が改易されたのは、小田原征伐の後の領地替え(尾張→三河・遠江)を嫌ったのが原因。
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信雄が領地替えを嫌がった理由は不明ですが、敵の肩を持ったという意味では、信包のほうが罪が重いといえなくもないところ。
それでも信包の改易まで4年もあったのは、信雄の改易が決まり、土田御前が信包のもとに行くことになったばかりだったからではないしょうか。
そこからさらに別の織田家親族のもとへ移動させるのは、さすがに秀吉にとっても体裁の悪いことだったのでしょう。
なにせ、秀吉が一番世話になった信長の母親ですからね。
ねね(高台院・北政所)、なか(大政所)など、秀吉の身近な女性たちが口添えした可能性も考えられます。
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特にねねは、かつて秀吉の浮気で悩んでいた際、信長から激励の手紙をもらったことがあります。
信長本人に恩返しができなくなったから、その母親である土田御前をできるだけ丁重に扱おうと思っても、不思議なことではありません。
土田御前も”有名な割には、記録が少なさすぎて実情がわかりにくい”という人物。
今後、いずれかの史料発見でイメージが激変する……なんてこともあるかもしれません。
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長月 七紀・記
絵・小久ヒロ
【参考】
国文学研究資料館(→link)
三重県津市四天王寺(→link)
土田御前/wikipedia