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【織田有楽斎(長益)】
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淀殿の隣にいて家康にも通じる
織田有楽斎が出産に立ち会った鶴松は、わずか三歳で亡くなってしまいます。
それが天正19年(1591年)8月5日のこと。
秀吉にとっても、有楽斎にとっても不幸な事態ですが、程なくして淀殿が再び懐妊し、文禄2年(1593年)8月3日に二人目の男子を出産します。
豊臣秀頼の名で知られる第二子の拾です。
豊臣秀頼は滅びの道を歩むしかなかった?秀吉と淀殿の息子 儚い23年の生涯とは
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しかし皮肉なことに、拾誕生後の豊臣家は、陽が傾き始めたようにも思える。
後継者であったはずの豊臣秀次の死。
その妻妾の大量処刑に伴う不満の蓄積。
【朝鮮出兵】によって鬱積する諸将の不満。
そんな不穏な空気が漂う中、慶長3年8月18日(1598年9月18日)、今度は豊臣秀吉が世を去りました。
この時点で、少なくない者たちが『もはや天下は豊臣にない……』と眼を光らせ始めていました。
無理に元服させられた豊臣秀頼はまだまだ幼い。
淀殿の横で秀頼を支えていた織田有楽斎も、これでは持たぬと痛感していたことでしょう。
実際、秀吉の死後、有楽斎は常に徳川家康と通じていたと考えられます。
家康と利家が対立したときも、すぐさま徳川家康の味方について警護に駆けつけ、【関ヶ原の戦い】でも、長男・織田長孝ともども東軍につきました。
寡兵なれど勇戦したこの戦い、有楽斎にとって最大の戦功と言えるかもしれません。
それ以上に、淀殿と秀頼の側近ある有楽斎が味方についたということは、家康に大義名分を与えることにもなります。
誰が秀頼公随一の忠臣か、決めるものである――その言い分に説得力を与えたともいえます。
ここまでしておきながら、淀殿に突き放されなかったのが有楽斎の凄みでしょうか。
家康と秀忠が東国政権を固める中、大坂城の淀殿と秀頼のそばには有楽斎の姿も見ることができたのです。
関ヶ原のあと、信心深い淀殿は寺社建立や再建に注力し、それが豊臣家の散財に繋がったとされます。
豊臣家には大量の金銀がありました。
裕福な大坂城にいる有楽斎も、そうしたマネーの力にあやかっても不思議はないところ。
名刹として名高い建仁寺に子院・正伝院を再建し、そこに茶室・如庵を設けました。
この如庵は犬山城に移され、国宝に指定されています。
庭園を含めて「有楽苑」とされ、愛知県犬山市を代表する観光スポットとなっているのです。
しばらくの間、大坂城には平穏な日々が続いてきました。
有楽斎も好きな茶の道を楽しむことができたのでしょう。
しかし、それも終わりを告げます。
二条城の会見を実現させるが
慶長16年(1611年)、後陽成天皇譲位にともない、家康が上洛。
このとき家康から織田有楽斎に頼みがありました。
「秀頼を上洛させよ」というのです。
特に反対されることもなく、秀頼は上洛。
二条城で家康と秀頼が対面を果たすとき、秀頼の供の中に有楽斎もおりました。
秀頼は上洛を機に朝廷や公家ともつきあい、西を治めるものとしての力量を見せました。幼かった秀頼も、すでに19歳の青年にとなっていたのです。
それから3年経た慶長19年(1614年)、【方広寺鐘銘事件】が起こります。
秀吉のはじめた方広寺大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫しながら、ここにきて、ようやく終わっていたのです。
しかし、歴史の授業でもおなじみ、鐘銘文が問題視されます。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
難癖をつけているようですが、実際に銘文を考えた文英清韓が、敢えて書いたとか。
家康に弁明するため、片桐且元が駿府へ向かい、このあと淀殿も大蔵卿局ら三名の女性を使者として駿府に派遣します。
豊臣恩顧の片桐且元が家康と淀殿の間で板挟み~だから「大坂冬の陣」は勃発した
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別々に派遣された彼らは帰路合流し、且元は和解へ向けた案を説明します。
これを聞いた大蔵卿局たちは且元に不信感を抱き、耐えきれなくなった且元は大坂を離れてしまいました。
茶々が起請文まで書いて引き留めようとしますが、もはや遅い。
且元の去ったあとの交渉役として、織田有楽斎の重みはますます増してゆきます。
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