織田家

信長による叱責~義昭や信盛へのダメ出しは実際どう書かれた?『信長の古文書』を眺める

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
信長の古文書
をクリックお願いします。

 


桶狭間で討ち取った記念に刀に刻んだ文言

写真として新紹介の文書も複数載っています。

天正3年(1580年)8月頃とみられる個人蔵の書状は、信長の自筆ではないかともされているものです。

武田勝頼と同盟していた小田原の北条氏政が信長に臣従したあと、鷹を献上したことが『信長公記』に載っておりますが、その際の文書の可能性があるそうです。

武田勝頼
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年

続きを見る

北条氏政
北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年

続きを見る

こうした文書以外には、モノの写真もあります。

たとえば信長が「藤原姓」を名乗っていたときの制札で、以下のページは信長が発給した最古のものですね。

天文18年(1549年)、信長16歳のときで、当時「藤原信長」と名乗っていたという事実がわかる貴重なものです(後に平氏を名乗る)。

面白いものでは、桶狭間の戦い(永禄3年=1560年)のときに今川義元が持っていた刀を戦利品とし、記念にそのことを金象嵌で銘を入れたことでしょう。

それが信長を祀る京都の建勲神社の持つ「義元左文字」です。

表には

<織田尾張守信長>

裏には

<永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀>

と刻まれています。

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?

続きを見る

今川義元
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは

続きを見る

 


唯一の自筆書状の宛先は?

最後に、唯一の自筆書状も紹介します。

信長の自筆とされるものは複数ありますが、来歴がはっきりしていて、どの研究者も自筆と認められるのは、この1通だけなのです。

天正5年(1577年)10月2日付の書状です。

松永久秀が信長を裏切ったとき、松永方の城を攻めた細川忠興の武功を褒めた内容です。熊本藩の細川家に伝わり、今も細川家の永青文庫に所蔵されています。

信長を2度も裏切った松永久秀は梟雄というより智将である~爆死もしていない!

続きを見る

本書は、1ページ1ページに信長の息吹を感じられるだけでなく、それぞれの書状についての詳しい解説が載っており、「あの頃にこんな文書を出したのか」などと、タイムスリップが楽しめます。

信長ファンならば、一生楽しめる一冊。

20,000円を10年、20年で味わえるなら、安い買い物かもしれませんぞ。


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

続きを見る

十七箇条意見書と殿中御掟
信長が義昭を叱る! 殿中御掟や十七箇条意見書には何が書かれてる?

続きを見る

佐久間信盛
織田家の重臣・佐久間信盛はなぜ信長に追放された?退き佐久間の最期

続きを見る

コメントはFacebookへ

武田勝頼
武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年

続きを見る

北条氏政
北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年

続きを見る

桶狭間の戦い
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?

続きを見る

恵美嘉樹・文

【参考】

山本博文・堀新・曽根勇二『織田信長の古文書』(→amazon

TOPページへ


 



-織田家
-

×