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【信長の古文書】
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桶狭間で討ち取った記念に刀に刻んだ文言
写真として新紹介の文書も複数載っています。
天正3年(1580年)8月頃とみられる個人蔵の書状は、信長の自筆ではないかともされているものです。
武田勝頼と同盟していた小田原の北条氏政が信長に臣従したあと、鷹を献上したことが『信長公記』に載っておりますが、その際の文書の可能性があるそうです。
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こうした文書以外には、モノの写真もあります。
たとえば信長が「藤原姓」を名乗っていたときの制札で、以下のページは信長が発給した最古のものですね。
天文18年(1549年)、信長16歳のときで、当時「藤原信長」と名乗っていたという事実がわかる貴重なものです(後に平氏を名乗る)。
面白いものでは、桶狭間の戦い(永禄3年=1560年)のときに今川義元が持っていた刀を戦利品とし、記念にそのことを金象嵌で銘を入れたことでしょう。
それが信長を祀る京都の建勲神社の持つ「義元左文字」です。
表には
<織田尾張守信長>
裏には
<永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀>
と刻まれています。
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唯一の自筆書状の宛先は?
最後に、唯一の自筆書状も紹介します。
信長の自筆とされるものは複数ありますが、来歴がはっきりしていて、どの研究者も自筆と認められるのは、この1通だけなのです。
天正5年(1577年)10月2日付の書状です。
松永久秀が信長を裏切ったとき、松永方の城を攻めた細川忠興の武功を褒めた内容です。熊本藩の細川家に伝わり、今も細川家の永青文庫に所蔵されています。
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★
本書は、1ページ1ページに信長の息吹を感じられるだけでなく、それぞれの書状についての詳しい解説が載っており、「あの頃にこんな文書を出したのか」などと、タイムスリップが楽しめます。
信長ファンならば、一生楽しめる一冊。
20,000円を10年、20年で味わえるなら、安い買い物かもしれませんぞ。
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恵美嘉樹・文
【参考】
山本博文・堀新・曽根勇二『織田信長の古文書』(→amazon)