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【林秀貞】
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政治活動で重責を任されるようになり
この頃、既に40代になっていた秀貞。
人生五十年の時代ですから、老人といっても過言ではありません。
そのためか、以降の秀貞はほとんど軍事行動を命じられておらず、代わりに政治的活動が多くなります。
織田家と徳川家の同盟である清洲同盟の立会人を務めたり。
信長の発行した公文書に署名したり。
大きなところでは、信長と足利義昭の関係が悪化したばかりの頃、和解を試みたときの起請文でも、秀貞が一番に署名しておりました。
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また、公家の山科言継が信長のもとにやってきたときには、必ず秀貞が取次を務めていたとか。
言継の身分や政治的立場を尊重するために、信長の家臣としては最高格の秀貞が用いられたということでしょう。
裏切りの一件があったにも関わらず、織田家の中では重要な役割を与えられていたのです。
長島では水軍の一角として援護に回る
秀貞が軍事的に動いた件も少しだけ記録が残されています。
天正二年(1574年)の長島一向一揆攻めや、天正六年(1578年)の神吉城(かんきじょう・播磨国)攻めなど。
しかし、最前線には出ていません。
長島では水軍の一角として援護に回っておりますし、神吉城攻めでは、元々羽柴秀吉(豊臣秀吉)が担当していたところへ、援軍の一員として出されたものです。
いずれも秀貞だけが命じられたわけではなく、もっと若い世代の武将も同行していますので、秀貞本人は彼らの目付や相談役としての出陣だったと思われます。
細かなところでは、信長主催の茶会にも秀貞は必ず招待されていました。
天正七年(1579年)に安土城天主が完成したとき、信長は秀貞と村井貞勝の二人にだけ見物を許したともいわれています。
村井貞勝も若い頃から信長に仕えており、軍事よりも政治、特に普請(工事)に関する仕事で能力を発揮した人でした。
信長の本心は不明ながら、武将ではなく政治家である二人に、天主からの眺めを見せて、今後の仕事にも活かすように……なんて考えもあったのかもしれません。
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