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【林秀貞】
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信忠の教育も任されたその矢先に……
時系列が前後しますが、天正三年(1575年)11月に信長が嫡子・織田信忠に家督を譲った際、秀貞は信忠付けになっています。
つまり次世代への教育も、秀貞が任されていたことになるわけです。
ここまでくると、秀貞だけでなく林家の将来も安泰……と思うところですが、実際はそうなりませんでした。
他の信長家臣たちのように、【本能寺の変】で運命が変わったのではありません。
変の二年前である天正八年(1580年)8月、秀貞は信長によっていきなり追放されてしまうのです。
このとき同時に元・西美濃三人衆の安藤守就や、丹羽氏勝(丹羽長秀とは同姓だが血縁関係なし)なども追放されています。
『信長公記』では「かつて信長に逆らおうとしたから、今回追放した」とだけ書かれており、詳細が全くわかりません。
一体、織田家や信長に、何が起きていたのか?
非常に不可解な一幕なのであります。
というのも、石山本願寺攻めを担当して五年も功績を挙げられなかった佐久間信盛父子がこのとき同時に追放されています。
佐久間父子については長々と書面で罪状を挙げておきながら、秀貞らについては単に「追放した」という事実のみ。
この状況が、後年の専門家たちを悩ませてきました。
老齢で働きが鈍くなったから?
本来、信長は、理由なく重い処分を下すような人物ではありません。
自ら頭を下げてきた人物については概ね許していますし、咎める際も細かすぎるほど丁寧です。
前者の例は松永久秀はじめ他に多々いますし、後者は将軍・足利義昭への意見書などが当てはまります。
端的にいうと、秀貞らの追放については、何から何まで「らしくない」のです。
そのため、現代の専門家の間でも、
①秀貞が老齢になったから
②秀貞の働きぶりに不満があったから
③何者かが讒言(ざんげん)したから
といった、あいまいな推測しかされていません。それぐらい意味不明なことなのです。
①や②だったら「どうして信忠に秀貞をつけたのか」という点が疑問になりますし、③についても讒言をした人物が全くもって不明です。
「明智光秀ではないか?」とする向きもあるようですが、荒唐無稽にも思えます。
追放後の秀貞の足跡についても、詳細は不明です。
京都に住んでいたとか(これが正しければ天正8年(1580年)10月15日に死没)。
あるいは安芸に身を寄せたとか。
追放から2ヶ月程度で亡くなったといった説など色々あり、なんとも後味悪い印象を残しています。
不幸中の幸いは、秀貞の三男・林勝吉が生き延びたことでしょうか。
彼も父と一緒に織田家を追放されましたが、本能寺の変後、旧知の間柄だった山内一豊に仕えたのです。
名前も一豊から一字もらって「一吉」と改めています。
その子孫は代々山内家の家老として存続し、領地の窪川(高知県高岡郡)で善政を敷いたとか。
こちらはめでたしめでたし……ですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)