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【大友宗麟(義鎮)】
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隣国・大内家でクーデター勃発
かくして着実に反対勢力を排除していく宗麟。
そのころライバルだった中国地方の雄・大内家でも御家を揺るがす大事件が起きていました。
天文20年(1551年)、当主の大内義隆が家臣・陶晴賢によるクーデターで滅ぼされたのです。
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【大寧寺の変】と呼ばれ、この一件は大友家にも非常に影響がありました。
宗麟の弟・大友晴英(はるひで)を大内家の当主にしないか?
と、陶晴賢から打診されたのです。
大友晴英の母は大友義興の娘(宗麟と同じ)であるからして、大内家にとっても深い繋がりがあり、過去にも「大内家の跡継ぎにならないか」という話がありました。
その話も一度はご破算になっていたのですが、陶晴賢のクーデターにより事情が一変。君主不在となった大内家へ再び要請されたのです。
宗麟は当初、この申し出に反対でした。
理由は極めて単純。陶晴賢が欲しているのはお飾りとしての大内家当主であり、弟の晴英が大内家に入っても操り人形になることが明白だったからです。
それでも当の晴英本人が「たとえ一時であっても大内家を継ぎたい!」と強固に主張したため、最終的には宗麟もこれを許し、晴英は名前を「大内義長」に変えて大内家へと入りました。
結論からいえば、宗麟の危惧通り弟の義長は晴賢の傀儡となってしまいます。
しかしメリットも大きいものでした。
大内氏から攻撃される懸念が激減したことで他の敵対勢力排除に注力することができたのです。
宗麟は天文22年(1553年)、少弐氏が衰退していたことを上手く利用して、彼らの治めていた肥前国守護職を得たほか、他にも家内の内紛を上手く鎮圧して統率力の強化を成し遂げました。
毛利と盟約を交わし弟を見捨てた?
新たに肥前守護となった宗麟は、続いて豊前・筑前といった北九州に攻略の矛先を向けました。
このころ中国地方では大内氏に代わって毛利氏が勢力を拡大させており、宗麟の弟・義長は毛利元就の侵攻に苦しんでいました。
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当然、兄に対し救援を懇願します。
「大内が危ないです。助けてください!」
ところが宗麟は、あえて大掛かりな援軍を行いません。
結果、弘治元年(1554年)に陶晴賢が【厳島の戦い】で敗死し、追い込まれた大内義長も弘治3年(1557年)、自害を余儀なくされました。
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宗麟にしてみれば、弟の治める領国が奪われるのは歓迎すべき事態ではありません。
それでも彼を救わなかった理由としては、元就との間に「義長討伐を邪魔しなければ、大友の豊前・筑前攻略も邪魔しません」という盟約が交わされていたためだと言われます。
悪く言えば「弟を売った」とも見れるわけです。
しかしながら、宗麟が相手にしていたのはあの元就です。表向きは手出しをしないように見せかけ、その実、豊前・筑前の国衆らに調略を仕掛けて一揆を扇動しました。
結果、山田隆朝や秋月文種といった勢力が宗麟の前に立ちはだかり、反対勢力の一掃に追われます。
8か国の守護&九州探題に就任!絶頂期を迎える
弘治3年(1557年)には山田隆朝が反発の構えをみせたため、宗麟も「息子を人質として差し出せば許してやらんこともない」と説得にかかります。
しかし隆朝はこの誘いに乗らず、宗麟も討伐を決意。
たちまち城を攻め落とすと、一族郎党の首を片っ端から刎ねるという手法で山田氏を殲滅しました。
続いて、筑前で独立勢力として力をつけていた秋月文種(あきづきふみたね)の討伐に乗り出し、古処山城(こしょさんじょう)に籠る彼らを大友家臣の吉弘鑑理(あきまさorあきただ)らに攻撃させます。
古処山城は標高1,000メートル近い場所に位置する山城で、正面からの攻略は難しいとされていました。
そこで鑑理は一計を案じ、城内に内通者を出して文種の殺害に成功。
宗麟は豊前・筑前を支配下に収め、この支配は幕府にも追認されました。
以前から幕府に対し莫大な献金工作を図っていたことも相まって、宗麟は永禄3年(1559年)に周防・長門の守護職までをも与えられます。
結果、宗麟は北九州を中心に計8か国の守護となり、加えて九州探題の名誉も手にする【九州の支配者】となりました。
こうして戦国大名としての大友氏、ならびに自身の生涯における絶頂期を迎えた宗麟には、今後さらなる躍進が待っている……かに思われました。
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