源義朝

源義朝/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

頼朝や義経の父・源義朝の実力とは?坂東のカリスマが鎌倉の礎を築く

初代鎌倉殿・源頼朝源義経の父として知られる源義朝

2012年大河ドラマ『平清盛』では玉木宏さんが演じ、2022年『鎌倉殿の13人』では登場こそしませんでしたが、その名を慕って千葉常胤たちが頼朝のもとへ馳せ参じたり、頼朝の兄弟たちも集結するなど、一定の存在感を放っておりました。

特に千葉氏は、坂東八平氏でも有力な一族として知られた存在です。

それが源氏である義朝、ひいては頼朝を助けるとはなぜなのか?

一体なにがあったのか?

平治2年(1160年)1月3日が命日となる、源義朝の生涯を振り返ってみましょう。

 


義朝が生まれるまでの源氏とは

源義朝とは一体何者なのか?

その理解を深めるため、まずは源氏の足跡を少し辿ってみましょう。

清和天皇の子孫に始まる清和源氏が坂東に拠点を持ったのは、平安中期の天慶2年(939)頃、源経基(916-961)が武蔵守として東国に赴いたことが初めとされています。

彼らは【平将門の乱】や【藤原純友の乱】で活躍。

経基の子・源満仲も武士として名を残しました。

※以下は平将門の乱・藤原純友の乱の関連記事となります

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続いて注目は満仲の三男・源頼信です。

藤原道長に仕え【平忠常の乱】では忠常を降伏させた頼信。

武芸に長け、坂東で盗賊の人質に取られていた子を助ける武勇伝も残し、周囲を感服させました。

そして源氏を飛躍させたのが、頼信の孫・源義家です。

後に伝説的な源氏の棟梁となる義家は、東国において武勇を誇り、坂東武者と強烈な繋がりを作りました。

しかし、義家の晩年から、坂東と源氏の関係に暗い影が落ちてゆきます。

康和3年(1101年)、義家の次男で嫡男だった対馬守・源義親が、任地で暴虐な振る舞いをしたのです。

これを義家が追討することになったのですが、その任を果たす前の喜承元年(1106年)に亡くなってしまい、天仁元年(1108年)に義親を討ったのは平正盛でした【源義親の乱】。

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平正盛は、あの清盛の祖父。

つまり源氏は、義家までに築き上げた坂東での信頼を失い、平家に奪われたような展開を迎えてしまうのです。

源義朝が生まれたのは、そんな時代、保安4年(1123年)のこと。

父親は、源為義でした。

ややこしくなってきましたので、ざっと流れを押させておきましょう。

源義家(曽祖父)

源義親(祖父)

源為義(父)

源義朝(為義の長男)

源頼朝(子)

義朝の母は、白河院の近臣である淡路守・藤原忠清の娘とされています。

当時は白河院政の時代。

天皇の外戚として政治を取り仕切る、藤原摂関家を牽制するために生まれた政治体制です。

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この通り義朝は、世の中が大きく変わりつつある、このご時世、保安4年(1123年)に生まれたのでした。

 


坂東では「上総御曹司」

源義朝の父である源為義。

つまり源頼朝から見て祖父にあたるこの人物は、パッとしない人生とされます。

狼藉を働いたため出世が遅れ、ついには嫡子の義朝と対立し、敗死してしまう――そんな情けない印象ですが、京都目線で描かれたものではないか?と思えます。

源氏が坂東で蒔いた種は、完全に消えることはなく、少しずつ育まれていきました。

◆常陸国(佐竹氏)

義家の弟・義光の子である義業が、常陸大掾家一族・吉田清幹の女と結婚。

その子・昌義が佐竹郷を本拠とし、佐竹氏となる

◆下野国および上野国(新田氏・足利氏)

義家の子・義重が利別業に住み、土着。

さらには上野国にも勢力を伸ばし、義重が上野国新田庄の領主となり、新田氏を起こす。

義重の弟・義康は、足利氏の祖となる。

為義はこうした関係を活かしながら、着々と坂東に根を張っていたのです。

長男の義朝も、父を追うようにして坂東へ下向。

父・為義が源氏伝来の所領としていた安房国丸御厨に移住しました。

その後、上総国に移り、上総氏の後見を受けたことから、義朝は「上総御曹司」と呼ばれるようになります。

義朝の母である藤原忠清の娘は、京都の貴族出身とはいえ、ランク的には中流。

母方の祖父(藤原忠清)は義朝が生まれる前に出家しており、ほとんど政治的な力もありませんでした。

一方で、義朝の乳母・摩々局(ままのつぼね)は、相模国中村宗平の姉妹にあたり、義朝はこの中村氏の庇護を受けて成長します。

中村宗平の息子であるのが『鎌倉殿の13人』でも頼朝を助ける役として出てきた土肥実平です。

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他にも登場人物と関係が深い血縁が結ばれてゆきます。

例えば、義朝の長男である源義平の母は、三浦義明の娘とされています(諸説あり)。

三浦義明は、三浦義村和田義盛畠山重忠の祖父であり、後に重忠と戦って戦死したことがドラマでも語られていましたね(以下に三浦義明を中心とした系図)。

また、義朝の二男である源朝長の母は、相模の名門武士である波多野義通の妹です。

こうした関係を通じて義朝は坂東に溶け込んでゆきます。

義朝は、なんだかんだで坂東武者にとって馴染みのある御曹司でした。

曽祖父の源義家が信頼を得て、その子、源義親の代でいったん関係は揺らぎましたが、源義朝が再び固めたような流れ。

坂東には、たしかに平氏も割拠していましたが、親近感では源氏が上回る状況が生まれたのです。

しかし、こうした関係が、父と争う端緒ともなるのですから、源氏の宿命と申しましょうか。

嫡男である源義朝が坂東で活動する一方、父の源為義と弟の源義賢が京都に留まっていたことから、争いに巻き込まれてしまいます。

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坂東武者を束ねる義朝と焦る父の為義

康治2年(1143年)のことでした。

上総常澄と千葉常重が、下総国相馬御厨をめぐって所領争いが起き、源義朝が介入。

常重の手から相馬御厨の領有権を没収すると、千葉氏を服属させました。

続いて翌年の天養元年(1144年)、今度は相模国大庭御厨に、相模の有力武士である三浦・中村氏の一千騎余りを派遣させました。

これにより大庭氏は義朝に屈服。

義朝は、このころから鎌倉を本拠にするようになります。

息子の源頼朝が鎌倉入りしたのもこうした縁からですね。

房総と相模の武士を巧みに統合してゆく義朝は、この頃まだ二十歳を超えたばかり(22~23歳)のことであり、さぞかし颯爽とした御曹司であったことでしょう。なんでも大変な美男であったとか。

『鎌倉殿の13人』では、千葉常胤が源頼朝と対面を果たし、父・義朝を思い出して感動していました。

常胤の脳裏には、若き義朝の姿があったに違いありません。

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しかし……。

義朝が坂東で活躍する一方、父の源為義は、鳥羽院政のもとで鳴かず飛ばずもよいところでした。

狼藉が祟り無官のまま、源氏失墜が囁かれるほどで、その挽回のためか、為義は摂関家に接近。

鳥羽院の皇后である藤原泰子とその父・藤原忠通に取り入ります。

忠通の子が「悪左府」と称された藤原頼長となります。

源義朝も、京都と無縁だったワケでありません。

久安3年(1147年)には三男の源頼朝が京都で生まれていました。

頼朝の母である由良御前は、実家が熱大宮司家であり、父は藤原季範。この家は、鳥羽院の中宮・藤原璋子との深い繋がりがあります。

うまく鳥羽院に取り入った義朝は覚えめでたく、仁平3年(1153年)3月、従五位下・下野守に叙任されたのです。

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坂東のみならず、京都でも父を凌駕してしまった義朝。

対立の種は芽吹いてしまいます。

為義は義朝の本拠地である坂東に、二男・義賢を送り込むこととしたのです。

義朝から見て弟となる義賢は、太子の護衛である帯刀舎人の長を務め、「帯刀先生」として知られていました。

摂関家の覚えめでたく、藤原頼長の男色相手としても知られています。

義朝が下野守に任ぜられると、この義賢が上野国に下向し、坂東武者たちを束ねるべく動き始めたのです。

さらには為義の三男・源義憲も常陸に拠点を構えました。

一連の動きは、異例の事態でした。

帯刀先生には出世ルートがあり、太子即位後は左右衛門少尉に昇進するはずでした。しかし坂東に向かったため、現地では義朝派と義賢派が分裂する様相を見せます。

京都にいた義朝は、素早く大胆な手を用いました。

久寿2年(1155年)8月、源義朝の嫡子・源義平が、源義賢の大蔵館を襲ったのです【大蔵合戦】。

結果、源義賢は義父の秩父重隆と共に討たれ、義賢の二男で2歳の駒王丸(のちの木曽義仲)は、信濃木曽谷にまで逃れます。

京都にいた義賢の長男・源仲家は、【以仁王の挙兵】でお馴染み源頼政の養子となりました。

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なお、この合戦は、京都でも衝撃的な事件として知れ渡ります。

わずか15歳に過ぎない義平が、叔父を討ち取ったからであり、藤原頼長は日記『台記』に義賢の死を記しました。

武士の動向など、番犬の喧嘩程度にしか思っていなかった藤原摂関家の人物が記録するほどの衝撃だったのです。

なお、義平が義賢を討ち取った際、配下に畠山重能がいました。畠山重忠の父ですね。

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この事件で坂東武者たちはますます義朝に付き従うようになり、一方、父・為義の凋落は加速。

為義が後継者と見なしていた四男・源頼賢が、春日社の訴えを受けて官職を失ってしまいました。

出世する義朝と、落ちぶれていく為義――これには彼らが誼とする鳥羽院と摂関家の力関係もありました。

鳥羽院が力を持ち、忠通と頼長親子を圧倒するようになっていたのです。

それでも為義と頼賢は、摂関家への依存を強めていくしかありません。

そしてついに保元元年(1156年)7月、【保元の乱】が勃発するのです。

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