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【大友宗麟(義鎮)】
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人生初の「挫折」33歳の若さで出家
名実ともに九州の覇者となった宗麟は、その後、獲得した領地の維持や反乱鎮圧に追われました。
彼らの躍進を妨害したのは毛利元就であり、大友配下の家臣や国衆を巧みに引き入れ、北九州へ手を伸ばします。
もちろん宗麟も黙ってはいません。
永禄2年(1558年)、門司城をめぐって毛利氏との合戦に及び、以降、この城は大友と毛利が占領と奪還を繰り返す激戦地となりました。
永禄4年(1561年)には、尼子氏攻略に専念していた元就に代わって、その三男・小早川隆景が送り込まれ、海上封鎖で宗麟を追い込みます。
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大友軍は門司城の奪還をひとまず諦めて撤退しましたが、隆景の巧みな追撃により撤退中に大損害を被ったと言われています。
この門司城における敗北は、宗麟に大きなショックを与えました。
これまで宗麟は、特段の苦労をすることなく8か国の守護に上り詰めており、人生初の「挫折」であったという指摘もあるほどです。
そして、彼はこのショックを払しょくするため33歳の若さで出家。
名を「宗麟」と改め(以前は義鎮)、豊後府内の統治を長男・大友義統に任せて自身は臼杵の地に城を築き、移住しました。
毛利との激しい攻防に追われ
仏道に専心して気力を養った宗麟は、毛利氏に占領された豊前への再遠征を決断します。
永禄5年(1562年)には立花道雪・吉弘鑑理を中心とした遠征軍を組織し、敵の拠点である豊前松山城および香春岳城を攻撃しました。
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ところが、この豊前松山城は非常に攻めづらい城であったようで、大友選りすぐりの猛将たちでも落とすことができません。
彼らは豊前松山城の包囲を継続しつつ、並行して因縁の地・門司にも進行していきました。
この地での合戦では大きな戦果を挙げたものの、やはり門司城を落とすまでには至らず……。
戦が長期化していく中で、両陣営は講和を模索するようになります。
特に毛利氏は尼子氏との抗争に手いっぱいであり、大友軍に構っている暇はありませんでした。そもそも今回の大友vs毛利の戦は、尼子氏が宗麟に要請して始まったものですから、ここは尼子氏の作戦勝ちといったところでしょう。
ところが元就は、ただ粛々と講和を受け入れはしません。
彼は交渉の傍ら、引き続き豊前・筑前の国衆へ挙兵を促しており、中々まとまらない交渉にイラ立つ宗麟の様子が確認できます。
最終的に将軍・足利義輝の仲立ちで永禄7年(1564年)に講和は成立しますが、その後も毛利の工作は止まらず、早くも交渉成立の二か月後には「元就が約束を守っていない!」と大友方が抗議する事態に発展します。
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苦しいはずの毛利がなぜそんな真似を?
というと実はこのころ「尼子氏との抗争」が片付き、大友と戦う余力ができていたと見なせます。
元就が執拗に進めてきた国衆への調略が実を結び始めており、大友方から離反者が続出する事態になっていたことも大きいでしょう。
毛利による狡猾な外交は、徐々に確実に、大友家を蝕んでいたのです。
離反者が続出し四面楚歌に陥る
実は和平締結の2年前、大友家臣として秋月文種の征伐などに功績を挙げていた高橋鑑種(あきたね)が、ひそかに毛利への内通を決意。
彼の裏切りについては軍記物などで様々な理由が述べられていますが、個人的には毛利と大友を天秤にかけた結果、生き残り戦略として毛利を選択したと思われます。
鑑種の裏切りは、戦略面だけでなく精神面でも宗麟に大きなショックを与えました。
「信頼していたし、可愛がって育ててきたのに、その恩を忘れて裏切るとは…(´・ω・`)」
そんな風に心情を吐露したとも伝わります。
毛利による裏切り工作は和平締結後も公然と行われ、もはや宗麟も黙っていられません。講和の取り決めを無視してふたたび毛利氏との戦を決意します。
永禄8年(1565年)、尼子氏を追い詰めるため家臣を総動員し、毛利の守りが手薄になったことを知った宗麟は、毛利方に内通した国衆を成敗する形で反撃に出ました。
ところが、コトはそう簡単に進みませんでした。
翌年、尼子氏との合戦がひと段落した毛利氏は、ついに全力を投じて豊筑攻略に乗り出したのです。
毛利の動きに呼応する形で高橋鑑種も挙兵し、さらに周辺エリアの敵対勢力だった筑紫広門・龍造寺隆信・秋月種実らも行動を起こしました。
まるで信長包囲網のように宗麟を取り囲む元就。
四面楚歌のピンチに追い込まれた大友軍は、勇猛な家臣たちの働きでどうにか一進一退の攻防を繰り広げます。
しかし、ついには筑前一国を失いかける情勢となり、さらには立花鑑載(あきとし)という家臣が高橋方に与してしまうという危機的状況に陥りました。
そこで奮起したのが勇将として知られる立花道雪。
立花城を占領し反旗を翻す立花鑑載に対し、永禄11年(1568年)に同城を急襲。総攻撃の末に鑑載を敗走させます。
それでも戦況は好転しません。
同年には豊前松山城で合戦が勃発し、ここで優位に立った毛利軍は立花城の奪還を目指して攻め込みました。
大友軍もよく粘りましたが、最終的には戦いに敗れ、城を明け渡して兵をいったん城外まで撤退。
停滞した状況を崩すべく両軍共に調略工作を進めていると、これまで幾度も毛利と大友の命運を左右してきた尼子氏がまたもや動くのです。
永禄12年(1569年)、毛利氏に敗れ京都に隠れていた尼子勝久を要して、山中鹿介(山中幸盛)が挙兵、出雲へ乱入して尼子再興を目指し暴れまわりました。
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尼子に加えて、毛利に敵対する国衆や大内氏の関係者も呼応し、ついに毛利氏は九州攻略を断念します。
こうして、長年にわたる大友対毛利の「北九州ラウンド」は、宗麟の判定勝ちで幕を閉じたのでした。
ただし、依然として門司城は毛利の手中にあり、ひとまず恭順を表明した高橋鑑種も隙あらば裏切りの構えを見せるなど、完全に安心できない情勢にあったことも事実です。
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