和歌山駅にある太田左近像

諸家 れきしクン

紀州征伐と太田左近~雑賀衆の意地ここにあり~信長&秀吉に徹底抗戦

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紀州征伐・太田左近
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一方、千石堀城を守っていたのは大谷左大仁という根来衆の荒法師。弓の名手でもあり、千数百人いた城兵は火縄銃で武装していました。

城も大規模な二重の堀を設けていて、防御力も優れていたため、豊臣秀次軍は1,000人以上の戦死者を出してしまったと言います。
さすが根来衆&雑賀衆!

攻城戦は翌日の朝方まで行われ、長期戦は必至か――と思われたところで、筒井順慶の軍勢が放った火矢で城に火がつき、延焼して火薬庫に着火。大爆発が起きたことをキッカケに豊臣秀次軍の総攻撃が行われ、千石堀城は落城しました。

【千石堀城の戦い】といいます。

その他の支城群も、以下のような形で次々に秀吉軍の手に落ちていきました。

畠中城

千石堀城の落城を受けて、自焼して撤退し落城

沢城

二の丸まで落とされてしまい降伏し開城

積善寺城

細川忠興ほそかわただおき蒲生氏郷がもううじさと・大谷吉継・池田輝政などメジャーな武将たちの攻撃を凌いでいたものの、貝塚御坊の卜半斎了珍ぼくはんさいりょうちんの説得で開城

高井城

福島正則らの攻撃を受けて落城

主人公の太田左近さんは、どこにいたんでしょう?
ちょっと分かりません(笑)。

さて、和泉国の南部を制圧した秀吉軍は、ついに雑賀衆の本拠地である紀伊国に攻め込みます。

秀吉軍はいくつかの部隊に分けて攻撃を開始。
根来衆の拠点である根来寺もターゲットとなり、3月23日に秀吉軍が迫ると残されていた僧侶たちは逃走し、瞬く間に秀吉軍の手に落ちてしまいました。

そのとき根来寺は炎上し、歴史的な大伽藍は3日間にわたって燃え続けたといいます。

炎上の理由は“秀吉の命令による焼き討ち”とか“秀吉軍の放火”、あるいは“根来寺による自燃”など諸説あります。

運よく燃え残った大塔は現在、国宝に指定されていて、秀吉軍が放った火縄銃の銃弾の痕が残されています。

根来寺大塔(photo ACより)

 

土橋が逃げても左近は逃げず

そのころ雑賀にも、秀吉軍の脅威は迫っておりました。

22日には雑賀衆の一党だった岡衆(代表は信長を狙撃した伝説のある岡吉正?)が秀吉軍に寝返り、同じく雑賀衆の湊衆を攻撃(湊衆の代表は大坂の陣豊臣秀頼に味方して紀州で一揆を起こした湊惣右衛門?)。

そして雑賀衆のリーダーだった土橋重治は、同盟相手の土佐国(高知県)の長宗我部元親ちょうそかべもとちかを頼って逃走してしまいます。
信長の死を契機に一つになっていた雑賀衆は、それぞれの生き残りをかけて再び分裂してしまったのです。

しかし、そういったアゲインストの中でも、秀吉軍に降伏せず、また逃走もせず、孤立無援でも戦ったのが太田左近さんの率いる雑賀衆でした。ここには根来衆の残党も加わっています。

秀吉軍は太田城へ攻撃を仕掛けたものの、太田左近さんの軍勢は待ち伏せをして火縄銃を巧みに用いて迎撃。秀吉軍53人(51人とも)を討ち取ったといいます。

千石堀城の戦いなどで多くの将兵を失っていた秀吉は「これ以上の被害を防ごう…」ということで、太田城の周囲に堤防を築き“水攻め”をすることに決定したのです。

秀吉は明石則実あかしのりざね黒田官兵衛の従兄弟)に命じて、3月28日(25日、26日とも)から堤防工事をスタート。46万9,200人を動員し、わずか6日間で、高さ5m前後&全長6~7kmの大堤防を完成させたと言います。

総光寺由来太田城水責図/wikipediaより引用

おそらく、動員数や期間に関しては盛りに盛られている情報でしょうけど、4月1日になると太田城の周囲には紀ノ川から水が引き込まれてしまいました。

 

泳ぎの得意なメンバーが軍船を沈めたり堤防を破壊したり

取り囲んだ約6万の秀吉軍は、総大将の秀吉に副将の豊臣秀次と豊臣秀長(秀吉の弟)。さらに、宇喜多秀家(秀吉の猶子・後の五大老)、小西行長(後の五奉行)、細川忠興、蒲生氏郷、蜂須賀小六など、錚々たるメンバーでした。

対する太田城の城兵はわずか4,000~5,000。しかも、その多くが老人や女子供だったといいます。まさに絶望的状況……!

こんな戦況でも屈することのなかったタフな太田左近さんでしたが、非常に運が悪いことに、なんと3日から大雨が降り始めて水量が増してしまいます。

チャンス!と見た秀吉は、中川秀政(信長の娘婿)に命じ、軍船を太田城に寄せて、鉄砲や矢を放って攻撃を仕掛けました。

太田左近さんは怯まずに鉄砲で迎え撃ち、その最中に城兵の中から泳ぎの得意なメンバーを選抜して密かに敵の軍船に近づかせて船に穴を開け、撃沈することに成功したといいます。
また、4月9日には堤防の一部が決壊し、宇喜多秀家の陣営に水がなだれ込み、多くの溺死者を出してしまったそうです。

【戦国イケメン伝・宇喜多秀家】27歳の若さで五大老就任!しかし最後は八丈島へ

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実はこの堤防決壊も、太田左近さんの配下によるものと伝わっています。泳ぎが得意な家臣が堤防に接近して破壊したんですね。凄まじい執念……。

太田城の籠城軍の士気は一時的に上がります。

しかし、圧倒的な物量の土木戦を得意とする秀吉軍。すぐさま堤防の修復を行って、再び水攻めが行われました。

……籠城して実に1ヶ月。
城主・太田左近の統率と戦術、城兵の戦力、兵糧の蓄え、どれを取っても充分でしたが、やはり援軍がない状況で秀吉の大軍と籠城戦を繰り広げても、長期的な勝機はありません。

戦況を見計らっていた秀吉は、軍使として蜂須賀小六を太田城に派遣。

蜂須賀小六/wikipediaより引用

小六は、太田左近さんにこのように伝えたそうです。

「棟梁を選び出して、首を差し出せば、城兵や農民の命は助ける」

 

雑賀衆の矜持を見せつけ開城→自害

雑賀衆のプライドを天下の秀吉軍に存分に見せつけた太田左近さんは、ここにきてついに降伏を決意。これは当然ながら、自らの死を意味することになります。

太田左近さんは降伏の条件通り自害し、同じく主だった城兵たち52人の首と共に秀吉軍に差し出されました。

こうして4月24日に太田城は開城を迎えます。
太田左近ら53人(51人とも)の首は大坂の阿倍野で晒され、53人の女房衆(奥さんたち)23人(28人とも)も磔となって処されたといいます。

その後、首は故郷に戻り、太田城の周辺に3ヶ所に分けて埋められたとのこと。その1つが現在も来迎寺の東に「小山塚おやまづか」として残されています。

また、おそらく阿倍野で磔になったであろう太田左近さんの正室とされる「砂」のものと伝わるお墓も来迎寺の境内に残されています。

小山塚

太田城はその後、秀吉軍によって火を放たれて廃城になりました。

昭和初期の宅地開発などもあり、建築物や土塁や堀などはほとんど残されていません。

 

しかし、大立寺だいりゅうじには太田城の「大門」を移築したと伝わる山門が現存して和歌山市の文化財となり、秀吉の堤防は「太田城水攻め堤跡」として一部残されています。

○太田城の大門(大立寺の山門)→link
○太田城水攻め堤跡→link

ちなみに、秀吉は開城した日に太田城の城兵に3ヶ条の朱印状を出しており、その最後に次のような一文があります。

一、在々百姓等、自より今以後、弓箭きゅうせん、鑓やり、鉄炮、腰刀等、停止 ちょうじせしめ訖 おわんぬ。然る上は、鋤、鍬等、農具を嗜たしなみ、耕作を専らにすべき者也。仍よって件くだんの如し。

これ、簡単にまとめますと

「百姓は武器没収! 農業に集中しろ!」

ということです。

あれ?なんかどっかで聞いたことがあるような一文ですね。
そうです!秀吉の『刀狩令』です。

秀吉の「刀狩り」は実際どこまで狩ったのか~兵農分離できればOKだった?

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秀吉の刀狩令は、学校の授業で「天正16年(1588年)に出された」と習います。たしかに全国的にはそのタイミングですが、実はそれに先駆けて太田城の城兵たちに出されていたんですね。

また秀吉は、太田城を手中に収めて廃城とした同4月末に、紀州の新たなお城の築城を命じます。
それが「和歌山城」です。

秀吉はその時に「岡山」と呼ばれていた築城地の名を「和歌山」に改名したといいます。
由来は『万葉集』にも登場する、和歌山城から南に位置する古くからの景勝地の「和歌浦わかのうら」だそうです。

和歌浦(photo ACより)

 

中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物

太田左近さんの死によって雑賀衆は壊滅しました。

傭兵部隊として織田信長を苦しめ、その後も独立気風の強さゆえに権力者へ歯向かった集団は歴史上の表舞台からは姿を消します。

生き残った雑賀衆は、帰農したり、腕を買われて別の大名に仕えたりしました。

現在は「太田城史跡顕彰保存会」さんを中心に、太田左近さんたちの霊を慰めるために毎年4月に法要が行われ、平成27年(2015年)には開城から430年を記念した記念祭も開催されています。

また、太田左近さんをモデルにした「自由の戦士 さこんくん」と、太田城に籠城して槍を持って秀吉軍に突撃したと伝わる朝比奈摩仙奈をモデルにした「愛の戦士 ませんなちゃん」も誕生しています。

さこんくんとませんなちゃん

あ、お二人の幟の後ろには太田左近さんの像が立っており、その案内板の文言も郷土愛が溢れていて個人的に好きなんです。

太田左近像の案内板

「太田左近は、天正十三年(一五八五)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという。

一ヶ月に及ぶ水攻めをうけた後、最後はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。

中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるであろう」

“もくろむ”からにじみ出るアンチ秀吉感(笑)も良いですが、最後の一文からも“太田左近は俺たちの兄貴”感が伝わってきてまた良いですね!

雑賀衆の意地を見せた不屈の紀州人!
太田左近さんの太田城、ぜひ登城してみてくださいませ!

それでは次回もお楽しに〜。

文:れきしクン(長谷川ヨシテル)

◆れきしクンって?

れきしクン(おんな城主直虎出演)

元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。

【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link

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