『本朝百将伝』の山名宗全/wikipediaより引用

諸家

山名宗全(山名持豊)応仁の乱で西軍大将となった武人の器量とは?

文明五年(1473年)3月18日は山名宗全(山名持豊)が亡くなった日です。

戦国時代の幕開けとされる【応仁の乱】。その開始時に、西軍で大将を務めた人物で色々と判断に困る方でもあります。

早速、見て参りましょう。

なお「宗全」は後々出家してからの名前であり、こちらのほうが有名なので統一させていただきますね。

 

嘉吉の事件に同席していた!山名宗全

山名家は源氏の一門で、新田家の支流にあたる家。新田氏の祖である源義重の異母弟・山名義範が始まりとされています。

新田家が足利家の支流なので、山名家もまた足利家の親戚ということになります(さらにさかのぼると源氏になります)。

その山名家で三男だった宗全は、長兄が夭折し、次兄が六代将軍・足利義教の怒りを買って廃嫡されたため、29歳で家督を継ぐことになりました。

足利義教はクジで選ばれた六代将軍~万人恐怖と怖れられ最期は家臣に斬殺され

続きを見る

最盛期に比べれば山名家の権勢は落ちていたものの、幕府の中でも順調に出世していきます。

そして、宗全にとってある意味大チャンスだったのが、嘉吉元年(1441年)に始まる【嘉吉の乱】という一連の出来事です。

嘉吉の乱で将軍・義教暗殺! 幕府衰退が始まった一大事件は意外とグダグダ?

続きを見る

同乱のキッカケとなった、赤松満祐による足利義教の暗殺。その時に同席していたのです。

宗全は抵抗せずに一旦屋敷を出て、満祐を討伐する軍を起こすという手際の良さを見せました。

冷静すぎて怖いんですが……もしかして……グル?

いずれにせよ、観応の擾乱で室町幕府における将軍の立場が危うくなりかけ、三代・足利義満が権威を取り戻したのが、再び地に落ちた感じですね。足利尊氏、涙目でしょう。

この間に出家し、持豊から宗峯、後に宗全と改名。

しかし、頭を丸めたくらいでおとなしくなるわけがないのは「守護大名戦国大名あるある」です。

宗全も力ずくで赤松家の領地をぶんどったりして、山名家の領地を「六分の一殿」(全国の1/6を領地にしているくらいの家)だった最盛期に匹敵するほどまで拡大させました。

 

武人肌だったので政争は得意にあらず

宗全は典型的な武人肌タイプで、政争はあまり得意としていませんでした。

ただし、政略結婚を用いることによって、家の立場を確固たるものにすべく動いています。

嘉吉の乱で殺された同族・山名熙貴(ひろたか)の娘二人を養女とし、一人は中国地方の雄・大内教弘に、もう一人は(後に応仁の乱で敵対する)管領の細川勝元に嫁がせました。

戦国時代を招いた当事者の一人・細川勝元から見た『応仁の乱』とは?

続きを見る

その後、これまた室町幕府のお偉いさんの一角・畠山家でお家騒動が起き、宗全と勝元が幕府の実質的なトップに浮上。

しかし数年のうちに、今度は宗全自身が八代将軍・足利義政と対立し、一時は討伐軍を起こされるほどになりました。

足利義政(八代目将軍)が幕府崩壊の始まり? 56年の切ない生涯マトメ

続きを見る

このときは勝元の取りなしで、宗全の隠居と引き換えにお咎めなしとなった……のですが……。

ここで赤松満祐の甥・則尚が「ウチの領地返せよ!」と宗全の孫・政豊を攻めたことで、また話がこじれてきます。まあ、先に土地をぶんどったのは宗全だから仕方ない。

 

勝元と対立したり協力したり……そして応仁の乱へ

宗全はこのころ但馬(現・兵庫県北部)にいたため、多少のタイムラグはあったものの、援軍に赴いて則尚を破りました。

この件もあり、宗全は隠居から四年で京に戻ることを許され、幕政に再び参加しています。

しかし、畠山家への対応について、今度は嫡子の教豊と対立することになってしまいました。

「よその騒ぎが原因で自分の家が仲間割れする」
とか、もうこれワケわからん。

話は、これで終わりません。

別のお偉いさんである斯波家の家督争いでは、娘婿である細川勝元と対立。それでいて、応仁の乱の一因である文正の政変では勝元と協力して、別のお偉いさん二人を失脚させています。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-諸家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.