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【殺された久秀の孫】
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賢く冷静な少年たちは六条河原で斬られた
手紙を勧められた久秀の孫らは答えました。
「このようないきさつでは、親へ手紙を書いても意味がないでしょう」
武家の子息らしく幼い頃から教育されてきたのでしょうか。
完全に悟りきった様子なのです。
自身の助命嘆願もせず、親への手紙も残さず。しかし、これまで世話をしてくれた佐久間盛明に対しては、
「ご親切にしていただき、ありがとうございました」
とお礼の手紙を書いたのだとか……。
二人は抵抗することなく、上京・一条の辻で車に載せられ、六条河原に連行されました。
見物人が集まる中、二人は落ち着いた様子で西に向かって手を合わせ、念仏を唱えてから斬られたといいます。
いじらしい様子に、見物人も涙をこぼしていたようです。
西にはほうき星
孫二人の処刑後も、久秀の態度が変わることはありませんでした。
まぁ、謀反をした時点で「人質がどうなるか」わかっているはずですので、当然といえば当然でもあります。
信長ももはや我慢できず、軍事行動を起こします。
息子の織田信忠に出陣させたのですね。
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信忠は9月27日、松永討伐のため出陣。
この日は飛騨の蜂屋頼隆のもとに泊まり、翌日は安土の丹羽長秀の下へ宿泊しました。
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29日も安土に駐留していますので、兵の準備を整えるとともに、老練な彼らに何か相談したのかもしれません。
29日の部分には、また別のことも書かれています。
この日の午後8時頃、西にほうき星が見えたのだとか。
「弾正星」観測記録上で最大の彗星か?
“西のほうき星”の正体は、西洋の記録にもある、非常に明るい彗星でした。
観測記録上で最大の彗星ではないか? そう目されるものの一つで、絶対等級-3と推測されています。
星の明るさを示す単位には絶対等級と視等級がありますが、いずれも「数が小さいほど明るい」という表し方。
また、彗星の場合は光が散らばった状態になりますので、「光が一ヶ所に集まっていたら」と仮定して決めているのだそうで。
そのため1557年当時の彗星と同じくらいの彗星が現代で見られた場合、「絶対等級で表される数字の割には暗く見える」と考えられます。
とはいえ、現代の全天で最も明るい恒星であるシリウスの絶対等級が1.42であることを考えると、このときの彗星はかなり明るいものだったのでしょうね。
当時の日本人にも、この彗星の印象は非常に強く残ったようです。
この後、松永久秀がたどった運命と結びつけて記憶され、彼の官職だった”弾正”と合わせて「弾正星」と呼ばれたこともあるとか。
彗星には多くの場合発見者の名前がつきますので、歴史上の人物の名前で呼ばれるのはかなり珍しいケースです。
また、彗星は古来「凶事の前兆」とされます。
なぜ久秀と結び付けられたのか、その理由は今後の本連載で。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
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日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
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谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
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峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)