天正五年(1577年)8月17日。
本願寺攻略のため天王寺砦にいた松永久秀・松永久通父子が突如、織田家に対して謀反を起こしました。
二人は本拠地の信貴山城(生駒郡)へ立て籠もったのです。
裏切りの久秀に対し「なにか不満があるのなら申せ」
大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんが演じ、注目度の高い松永久秀。
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余計な兵の損耗を避けたかったのでしょう。
家臣や身内にかなり甘いところのある信長ですので、松井友閑を通して久秀に謀反の理由を尋ねます。
「なにか不満があるのなら申せ」
謀反を起こしても怒り狂うワケでもなくむしろ優しく諭そうとしております。
対する久秀は、出頭もせず返事もせず……。
このまま放置にしておくのは、さすがに他の武将たちに示しがつきません。
そこで信長は、人質として預かっていた久秀の孫二人を処刑することにしました。
彼らは永原(滋賀県野洲市)の佐久間盛明の下にいたため、家臣の矢部家定と福富秀勝に京都へ連行させ、そこで処分するよう命じます。
と、その前に新しい名前が出てきましたので、簡単に紹介しておきますと……。
佐久間盛明は詳細が不明ながら、織田家の家老である佐久間一族だったようです。盛明の弟が信長の父・織田信秀に仕えていたとされ、家臣の中では年長者だった可能性があります。
矢部家定は武将というより吏僚(≒官僚)という感じの人で、若い頃から信長を政務面で支えていました。
福富秀勝は馬廻衆の一人で、信長が信忠へ家督を譲ってから、徐々に政務に関する仕事が増えていったようです。
三人とも「身分は高くないが、信長に長く仕えて信用されていた人」という感じですね。
「信長公が助命してくださることはないでしょう」
驚くべきは久秀の孫二人でしょう。
まだ13歳と12歳とは思えないほどしっかりとした少年だったのです。
京都に連行されてきた彼らを預かった村井貞勝も哀れに思い、助命を勧めました。
「宮中へ駆け込み、助命の取りなしをお願いするとよいでしょう。そのためにも、髪と衣服を整えておきなさい」
しかし二人とも状況をよく理解していたのか。
「信長公が助命してくださることはないでしょう」と消極的だったそうです。
皮肉なものですが、とても賢い子供たちだったのでしょうね。
また、貞勝が「親兄弟に手紙を書きなさい」と言ったときも、驚くほど冷静な答えが返ってきます。
賢く冷静な少年たちは六条河原で斬られた
手紙を勧められた久秀の孫らは答えました。
「このようないきさつでは、親へ手紙を書いても意味がないでしょう」
武家の子息らしく幼い頃から教育されてきたのでしょうか。
完全に悟りきった様子なのです。
自身の助命嘆願もせず、親への手紙も残さず。しかし、これまで世話をしてくれた佐久間盛明に対しては、
「ご親切にしていただき、ありがとうございました」
とお礼の手紙を書いたのだとか……。
二人は抵抗することなく、上京・一条の辻で車に載せられ、六条河原に連行されました。
見物人が集まる中、二人は落ち着いた様子で西に向かって手を合わせ、念仏を唱えてから斬られたといいます。
いじらしい様子に、見物人も涙をこぼしていたようです。
西にはほうき星
孫二人の処刑後も、久秀の態度が変わることはありませんでした。
まぁ、謀反をした時点で「人質がどうなるか」わかっているはずですので、当然といえば当然でもあります。
信長ももはや我慢できず、軍事行動を起こします。
息子の織田信忠に出陣させたのですね。
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信忠は9月27日、松永討伐のため出陣。
この日は飛騨の蜂屋頼隆のもとに泊まり、翌日は安土の丹羽長秀の下へ宿泊しました。
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29日も安土に駐留していますので、兵の準備を整えるとともに、老練な彼らに何か相談したのかもしれません。
29日の部分には、また別のことも書かれています。
この日の午後8時頃、西にほうき星が見えたのだとか。
「弾正星」観測記録上で最大の彗星か?
“西のほうき星”の正体は、西洋の記録にもある、非常に明るい彗星でした。
観測記録上で最大の彗星ではないか? そう目されるものの一つで、絶対等級-3と推測されています。
星の明るさを示す単位には絶対等級と視等級がありますが、いずれも「数が小さいほど明るい」という表し方。
また、彗星の場合は光が散らばった状態になりますので、「光が一ヶ所に集まっていたら」と仮定して決めているのだそうで。
そのため1557年当時の彗星と同じくらいの彗星が現代で見られた場合、「絶対等級で表される数字の割には暗く見える」と考えられます。
とはいえ、現代の全天で最も明るい恒星であるシリウスの絶対等級が1.42であることを考えると、このときの彗星はかなり明るいものだったのでしょうね。
当時の日本人にも、この彗星の印象は非常に強く残ったようです。
この後、松永久秀がたどった運命と結びつけて記憶され、彼の官職だった”弾正”と合わせて「弾正星」と呼ばれたこともあるとか。
彗星には多くの場合発見者の名前がつきますので、歴史上の人物の名前で呼ばれるのはかなり珍しいケースです。
また、彗星は古来「凶事の前兆」とされます。
なぜ久秀と結び付けられたのか、その理由は今後の本連載で。
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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)





