戦国武将が一族や家臣に残した言葉や家訓。
過酷な時代を生き抜いた先人だけにその中身には重みがあり、現代にも通用することがある。
そこで本稿では、有名な戦国大名の父(あるいは当人が父として)遺した「言葉」や「もの」を見てみましょう。
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政宗 涙なしには読めない父からの手紙
伊達政宗と言えば「敵にさらわれた父(輝宗)を自ら始末するよう命じた」なんていう説もあるくらい微妙な父子関係と言われている。
しかし、こんな愛にあふれた書状が残っている。
政宗へ 父より
「若い時は戦略を誤り、また、暴言や失言も吐く。そのような間違いは多いものだ。
しかし、世間の評価や家臣の噂は気にする必要はない。
お前には俺がついている。命をかけてそなたを支えるから、安心して自分の信じるところを突き進め。
覚悟を決めて突き進めば、異を唱える者はなくなるだろう」(大意)
この書状は仙台市博物館に所蔵されている輝宗の自筆の手紙である。
佐藤憲一・元仙台博物館長によると「この手紙、焼却するように」とあるとのこと。
しかし、父の思いが詰まった手紙をどうしても政宗は捨てられなかったのだ。
まさしく親の愛は無限――。
きっと片方の目からさめざめと男泣きの涙が流れたことだろう。
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信長は、父が家臣団と緩い主従関係しか結ばなかったため苦労したことを反省。
赤母衣衆(前田利家)や黒母衣衆(佐々成政)などの近衛兵を養成して、みずからのまわりを固めた。
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それが「カリスマ化」路線にもつながるのだろうが、では父は「負の遺産」しか遺さなかったのだろうか?
戦国・幕末の研究者で作家の桐野作人さんは
「織田信秀が信長に残した最大の遺産が信長と帰蝶(濃姫)との縁組である」
と指摘する。
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濃姫とは斎藤道三の娘で、この縁組により尾濃同盟が成立。
平手政秀の尽力もあったとされ、父は自分が他界後も「厳父」を遺したといえるだろう。
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さて次は父として「何を遺したか?」についても見ていこう。
天下人を適任者に譲るということは、もしかしたら天下をとるよりも難しいかもしれない。
源頼朝も、信長も、豊臣秀吉もみなうまくいっていない。
この難業を成し遂げたのが徳川家康である。
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