こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【豊島泰経】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
居城の石神井城で挙兵! 弟も練馬城で!
それにしても、なぜ豊島泰経さんは、このギャンブル的な反乱に応じたのか……。
ハッキリ分かっていないのですが、豊島泰経さんの正室は長尾景春の姉妹で、二人は義兄弟だったとも言われています。
その辺りが謀反参戦の理由だったのでしょうか。
ひょっとすると、新興勢力で領地を脅かす両上杉家に対し、平安時代末期から豊島郡を領する名家のプライドが豊島泰経さんを動かしたのかもしれません。
ともかく豊島泰経さんは居城の石神井城で挙兵!
弟の「豊島泰明」(同じく実名は不明・官職名は「平右衛門尉」)も「練馬城」(東京都練馬区)で挙兵したのです!
ちなみに、練馬城の城跡のほとんどは、現在、遊園地の「としまえん」となっています。
練馬区にあるのに“としま”と名が付いているのは、豊島家の居城だったことに由来しています。
練馬城ととしまえんの関係については、拙著『ヘンテコ城めぐり』(→amazon)で詳しくご紹介しております。
是非チェックしてみてください(宣伝ごめんなさい!)。
一時は武蔵国を制覇する勢いだった
さて、この豊島泰経さんと長尾景春の謀反ですが……最初はウマいこと行ったんです。
長尾景春によって山内上杉家(上杉顕定)は、領地だった武蔵国北部を追われて上野国(群馬県)に敗走。
武蔵国南部を領地する豊島泰経さんがいますので、反乱軍は武蔵国の多くを手に入れたことになります。
ただ、武蔵国の南部には、相模国(神奈川県)も領地としていた扇谷上杉家の勢力がまだいました。
対戦武将となるのは誰か……それが「江戸城」を築いたことで有名な扇谷上杉家の家宰のアノ「太田道灌」です。
太田道灌はなぜ暗殺されたのか? 江戸城を築き関東に名を轟かせた文武両道の武将
続きを見る
太田道灌は江戸城を拠点に「河越城」(埼玉県川越市)や「岩付城」(埼玉県さいたま市)を支城としていました。
その江戸城と河越城&岩付城の連絡を遮断したのが……そう! 豊島泰経さんです!
実は豊島泰経さん、自分の領地の豊島郡にグイグイと介入(江戸城があるのも豊島郡)してくる太田道灌のことをよく思っていなかったらしく、それが謀反に加担する理由の1つになったとも言われています。
こうして豊島泰経さんは、当時から名将と名高かった太田道灌と干戈を交えることとなったのです。
名将・道灌に大敗 弟も討ち死にしてしまう
兵は拙速を尊ぶ――。
本来であれば、主役である豊島泰経さんが【孫子の兵法】にあるような迅速な攻撃を仕掛けたとしたいところですが、すいません、逆です(笑)。
太田道灌は持ち城を分断する脅威の勢力である豊島泰経さんを攻撃!
まずは練馬城に兵を進め、お城に矢を放ち、城下を焼き払って一旦引き上げました。
この報せを受けた豊島泰経さんは、援軍に向かうため石神井城を出陣。
攻撃を受けた練馬城の弟(豊島泰明)も、合流して太田道灌との合戦に臨みます。
時は文明9年(1477年)4月13日。
両軍は江古田・沼袋(東京都中野区)で激突しました。
世に言う【江古田・沼袋原の戦い】です。
主役である豊島泰経さんが大勝利……と言いたいところですが、これまた結論はその逆です……。
氷川神社に陣を張った太田道灌は、薩摩国(鹿児島県)の島津家が得意とした「釣り野伏」の如く、練馬城を攻撃することで豊島泰経さんを石神井城から誘き出し、野戦で一気に決着を付けるという作戦だったのです。
この策にまんまとハマってしまった豊島泰経さん。
合戦上手の太田道灌に散々にヤラれ、弟の豊島泰明が討ち死にしてしまうなど大惨敗を喫し、命からがら生き残った家臣たちと共に石神井城に逃げ込みました。
※続きは【次のページへ】をclick!