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【小田氏治】
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野戦はソコソコだけど城で倍返し(喰らう)
氏治も野戦ではたびたび勝利しています。
結局は城攻めが苦手すぎて倍返しをくらうことが多かったようで。
しかし自分の城が取られたときに奪い返すのは得意、というよくわからん人ではあります。
まぁ自分の城なら攻めやすいところがわかる→だから勝てる、というのは納得できますね。
秀吉だって、大坂城について「この城を落とすには、堀を全部埋めるか、長期間に渡って兵糧攻めをするしかない」と言っていたとかいないとか……そんな逸話がありますし、ついでに徳川家康がそれを聞いて大坂の役で実行したとかなんとか。
氏治が家臣や領民に慕われたのも
「ウチの殿様は絶対に最後は勝って帰ってきてくれるんだから」
と思っていたのかもしれませんね。
後に佐竹家との戦いを始めて戦線が拡大すると、独力だけでは奪われた城を取り戻すことが難しくなったのですが、そのときも諦めずに本拠地・小田城を取り戻します。
後北条家に仕えていた庶子の友治が「父を助けてもらえませんか」と懇願。
そしてこのタイミングで後北条家が小田家に味方したばかりか、千葉氏・相馬氏・江戸氏といった近隣大名の助けも得て、再び本拠の小田城を取り戻すことができたのです。
「仲間に助けられて強大な敵に勝った」という、まるで少年漫画の主人公ですね。
娘が側室となっていた秀康の客分として
氏治は天正八年(1580年)には出家して「天庵」と名乗っておりました。
が、佐竹との戦は続けています。いったい仏門とは……。
そして、その決着がつかないうちに秀吉が小田原征伐がスタート。
佐竹は秀吉に臣従することを表明していたため、その佐竹と戦った小田家は「謀反を起こした」として、領地を全て没収されてしまいます。
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慌てた氏治。小田原攻めが終わった後、奥州へ向かった秀吉を追いかけ、会津で謝罪して命は許されました。
が、次は大名には戻れませんでした。残念。
その後は、娘が側室として嫁いでいた結城秀康(家康の実子)の客分として晩年を過ごしています。
秀康の義父・結城晴朝がかつて氏治と戦っていた事を考えると、数奇な運命ですね。
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秀康が越前に転封された後も、氏治は嫡男・守治、庶子・友治とともについていきました。
そのまま結城家で暮らしていたらしく、氏治が亡くなったとき、一度は越前で葬られています。その後、常陸の新善光寺に改葬されたそうです。
同名のお寺が二ヶ所あり、片方は既に廃寺になってしまっているので、どちらにあるのかはっきりわからないのですが……。
氏治の経歴からすると、神式で葬られていたら、今頃、浪人生や転職活動中の方から厚く信仰されていたかもしれませんね。
小田城の建造物は残っていませんが、近年堀などが整備されていて、縄張りの雰囲気はうかがうことができます。
また、近隣には元小田家臣の太塚家が帰農した後に住んでいた家が残っています。
結構立派な建物です。
車でないと行きにくい立地ではありますが、小田家の在りし日の姿を感じるのもいいかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
小田氏治/Wikipedia