前者の代表は、やはり織田信長でしょう。
武田信玄や上杉謙信と激突してフルボッコにされておきながら、それから程なくして両者が死亡。
直接戦ったのは徳川家康【三方ヶ原の戦い】や柴田勝家【手取川の戦い】ですが、いずれにせよ織田家を標的にしたものであり、間一髪のところで助かっています。
「持ってない人」は、最強と称されながら関ヶ原に参戦できなかった立花宗茂や、豊臣秀吉の天下取りを見れなかった竹中半兵衛などでしょうか。
ここに挙げたのはいずれも名だたる武将ですが、無名でも「f不思議な何かを持った武将」というのも存在しまして……。
1602年1月6日(慶長六年閏11月13日)は、常陸=茨城県の戦国大名・小田氏治(おだうじはる)が亡くなった日です。
知る人ぞ知る人気武将というか、何度でも蘇った大名として、巷では密かに人気があります。
負けても負けても復活するのです。
一体どんな人だったのでしょう。
※以下は織田信長の生涯まとめ記事となります
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おだはおだでも織田じゃない
氏治は、天文三年(1534年)、または享禄四年(1531年)生まれといわれています。
1534年生まれの織田信長とは同世代ですね。
同じ「おだ」でもだいぶ違う生涯ですが。
小田家は宇都宮氏一門・八田家から分かれた家で、本姓は藤原氏になります。
氏治は血筋上、室町幕府12代将軍・足利義晴の従弟でもあり、かなりの名門。
戦国大名の前例に倣うかのようにして、氏治も10代半ばで父の死により家督を相続しました。
時折しも関東では、北条氏康が名を轟かせた【河越夜戦】があったときです。大軍を奇襲で蹴散らした歴史に残る一戦ですね。
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小田氏治は、父の代で負け方についていたため、小田家自体の勢力が弱まっていた時期でもあります。
そこで氏治はかつての勢いを取り戻すべく、周辺の大名と戦っていくのでした。
北条&結城から城を取り戻すも
当初、一番の敵は結城家でした。
小田家から結城家へ寝返った家臣もいて、緊張状態も続いています。
さらに結城家は後北条家とも助力を得て、勢いを増していたため、小田家にとっては危機が増すばかり。
これに対し、氏治は佐竹家と手を結び、結城家と戦うことを決めます。
しかし、結城・後北条軍のほうが上手で、領内の城だけでなく、本拠の小田城まで奪われてしまいます。
普通ならここで大名として滅亡まっしぐらの場面です。
しかし氏治は負けません。
まずは土浦城に入って再起を図ります。
運良く後北条家が「佐竹と本腰入れて戦いたいから、小田とは和解するわ」(意訳)と言い出して兵を引いたため、氏治は結城軍を追い払い、小田城を取り戻すことに成功したのです。
氏治はこんな感じのことを何回か繰り返しています。
そこで現代の誰かが「不死鳥のようだ」と評し、じわじわと人気が高まったというわけですね。
また氏治は、上杉謙信の小田原攻めにも参加したことがあります。
しかし、氏治は途中で後北条方に寝返り、そのために上杉家との戦いを招いてしまいました。
そして上杉との戦いでも本拠を奪われておりますが……謙信に「城の修理はしませんので、降伏させてください」と詫びを入れて許されています。
不思議なのは、こんだけ負け続きでも領民や家臣からの人望が厚かったことでしょうか。
佐竹義昭が謙信宛ての手紙の中で「小田家は最近アレだけど、鎌倉以来の名家でもあるし、氏治も優れた武将だ。良い家臣も多い」と評しているほどです。
“上杉鷹山が農民の手伝いを自らした”というような具体的エピソードは残っていないので、何か目立つことをして人に感謝されたのではなく、日頃の言動で家臣や領民の信頼を得ていたのでしょう。
もしくは氏治は「この殿様を放っておいたら心配だ。私らが守って差し上げなければ」というような、庇護欲をそそるタイプだったのかもしれません。
領内総モンペとか何それこわい。
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