目立った功績や争いがない――というのが主な理由で、逆に名の知れた将軍と言えば以下の5名ぐらいでしょうか。
1代・足利尊氏
3代・足利義満
6代・足利義教
8代・足利義政
15代・足利義昭
問題は、彼らだけを学んでも、全体像を把握するのが難しいということでしょう。
皆さんの記憶における室町時代って、なんとな~くボヤけた印象になってません?
それは数少ない有名将軍をつまみ食いしているから。
この時代は、前の世代で火種となったものが爆発しているケースが多く、例えばラストエンペラーの十五代将軍・足利義昭なんて悲惨です。
いきなり流浪の身になったり、織田信長に追い出されて幕府そのものが\(^o^)/オワタ状態になったり。
どうして義昭こうなった?
というのは、父ちゃんである十二代将軍の足利義晴に原因があったとも考えられます。
天文19年(1550年)5月4日が命日である義晴と共に、室町幕府の後半を見てまいりましょう。
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父・義澄が近江の六角氏に身を寄せていた頃に誕生
足利義晴は、父である十一代将軍・足利義澄が、近江の六角氏に身を寄せていた頃に生まれました。
十代将軍・足利義稙の上洛による戦火を避けるため、京都から避難していたんですね。
もう、この時点でややこしいです。
というのも、義稙とか義澄の影響があり、彼らの足跡にご興味をお持ちの方は、以下の記事をご覧いただければ幸いです。
10代将軍・足利義稙は京都を出たり入ったり 一体何をした将軍だったのか
続きを見る
11代将軍・足利義澄が身内争いの日々に追われた理由とは~32年の生涯まとめ
続きを見る
なお、義晴が生まれて5ヶ月程で義澄は亡くなっており、親子の会話はほとんどなかったと思われます。
逃亡先で子作りに励めたのも、本能的な欲求だったのかもしれませんね。
子孫を残すのも為政者の義務であり、むしろこの時点まで子供がいなかったことのほうが当時は問題視されたことでしょう。
幼い頃は播磨守護・赤松義村のもとで
幼い義晴は、義澄派の重臣である播磨守護・赤松義村(よしむら)のもとで育ちました。
幸い、永正十年(1513年)2月には、義澄派と義稙派の和睦が成立し、義稙が再度将軍になることで合意。
幼すぎる義晴を将軍にしたところでお飾り状態は明白ですから、成人している義稙が将軍に返り咲くほうがいい……という判断でしょうか。
しかし、いつの時代も決定事項に反する者はいます。
義晴の養父にあたる赤松義村はこれを不服とし、義晴を担ぎ上げて一戦しようとしました。
義村は備前守護代・浦上村宗に反攻するための神輿が欲しかったのです。主筋の人間を巻き込むなよ……というのは今更の話ですね。
結局、義村は永正十八年(1521年)1月に敗れ、強制的に隠居させられます。
また、義晴も浦上村宗のもとへ身柄を移されてしまいました。
ゴネたせいで自分の立場も神輿の善晴も失うなんて……(´・ω・`)
もしも彼に
「義晴がもう少し大きくなるまで、養父としての力を強めることに専念する」
とか
「息子の代に幕府の中枢になれるよう地盤を整えておく」
とか、そういう発想ができれば、運命も大きく変わっていたことでしょう。
満10歳、またしても少年将軍の誕生となる
しかし、いざ将軍になった義稙も全く落ち着きのないものでした。
二ヶ月後、管領・細川高国と対立して京都を出奔し、直後に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったのです。
結果、高国が警固の職務を遂行することになりました。
すっかり義稙に愛想を尽かした高国は、義晴を新たな将軍にすげ替えようと考えます。
そこで、かねてから親交のあった浦上村宗に連絡し、将軍代理として義晴を即位式に出席させることにしました。
義晴にとっては初めての上洛。高国に歓待され、内裏にも上がって天皇へのご挨拶もすることができました。
すると、その様子が問題ないと判断されたのか、朝廷から正式に将軍補任の合意が出ます。
急ピッチで官位の授与や元服式が行われ、永正十八年の年末、義晴は正式に第十二代将軍に任じられました。
満10歳、またしても少年将軍の誕生です。
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