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【足利義晴】
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右腕だった六角定頼にあっけなく裏切られ
何はともあれ、義晴は室町幕府では数少ない”大御所”として、義輝の後見を行っていくことになりました。
親子の会話がどんなものだったかは推測するしかありませんが、おそらくは将軍の立場や役目、その地位を保つことの難しさなどを諭したことでしょう。
上記の通り、義輝はこのとき11歳。
実務を行うには厳しいにしても、ものの善悪や自分の立場は充分理解できる年齢です。大人として扱われるのが早かった時代のことですし。
あるいは義輝の言動を見て、義晴が「そろそろあいつも道理がわかるようになってきたから、俺が元気なうちに将軍を譲りたい」と思ったのかもしれませんね。
こうして後のことは定まってバンザーイとはならないのが、この時代。
細川氏の争いはまだまだ続きました。完全にペンペン草も生えません。
義晴は天文16年(1547年)3月、瓜生山城(うりょうさんじょう・現京都市左京区)へ入って、今度は氏綱方に味方する姿勢を明らかにしました。
しかし、義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏。
上記の通り、六角定頼は「管領代」、つまり義晴が「これからお前を右腕扱いにするからよろしくな」と頼りにしていた人物です。
そういう人に裏切られてしまったのです。嫌な予感しかしませんね。
更にはこの年の夏、細川・六角連合軍が瓜生山城を攻撃し、義晴は自ら城に火を放ってまたまた近江坂本へ逃走。
半月程度で晴元と和睦して京に戻ってますが、もう数えるのも疲れたよ(´・ω・`)
六角定頼からは「晴元殿と和解なさったほうがいいですよ」(意訳)という手紙が届きました。
関係性がややこしいところですが、定頼からすると義晴は「頼りない将軍だがむざむざ殺すのも気が引ける」、晴元は「娘のダンナだから味方してやろう」みたいな感じです。まったくもってイヤな三角関係です。
こんな感じの「アイツは気に食わないけど、ダチのダチだからできれば対立したくない(ダチとの関係が壊れるから)」みたいな関係があっちこっちで同時に存在していたのが、当時の室町幕府と近隣事情です。
もうホント、将棋大会でもやって権力者を決めればいいのにねぇ。
再び近江へ逃げながら、慈照寺の裏に中尾城を築城
天文十八年(1549年)、今度は細川晴元と三好長慶の二人が三好政長の処遇をめぐって対立し始めました。
政長は三好氏の分家筋の人で、晴元の側近です。
三好本家の長慶からすると、
「なんでアイツ、俺を飛び越えて細川氏に仕えてんの? おかしくない?」
と思うのは当たり前です。
また、河内の複数箇所の代官職を巡る対立もありました。
そのため、政長から見て主君の晴元と、本家の長慶の仲もこじれはじめた……というわけです。
義晴は、晴元に味方しました……が、【江口の戦い】で政長が戦死し、晴元が敗北すると、今度は、義輝と晴元、妻の兄である近衛稙家と共に近江の朽木谷へ逃げます。
やっぱり「そのまま近江にとどまればいいんじゃないかな」という気がしますが、義晴は諦めません。
慈照寺(銀閣があるお寺)の裏にある地蔵山に、中尾城の築城を開始したのです。
当時、普及し始めたばかりの鉄砲を意識し、城の壁に石や砂利を詰めさせて防御力を高めたといいますから、ガチでやり合う気だったのでしょう。
その割に、根本的な問題を解決しようとか、似たようなことが今後起きないように工夫するとか、そういう素振りが見えないのですが……。
もしくは、そういう考えが浮かぶ前に、寿命が来てしまったのかもしれません。
中尾城を造り始めて間もなく、義晴の体調は悪化。
天文十九年(1550年)3月には穴太(あのう・現滋賀県大津市穴太)に移り、そのまま回復せず亡くなっています。
享年40(満39歳没)。
死因は悪性の水腫ながら自殺説も残っている
足利義晴の死因は、悪性の水腫だったといわれています。
水腫が起こる病気はいろいろありますが、最晩年は「果汁の粥をすすりながら進軍した」という記録があります。この果汁がどの果物かわかれば、病名を突き止めるヒントになるかもしれません。
人間、無意識に足りない栄養素を補おうとするものですから。
一方、義晴の死の直後、奉公衆の一人・進士晴舎(しんし はるいえ)から上野の戦国大名・横瀬(由良)成繁に宛てた書状では
「義晴様が自害なされた」
と書かれているとか。
となると、病状を悲観した義晴が自ら……ということもありえますね。
死の前日、絵師の土佐光茂を呼び寄せて自らの肖像画(上掲の画像)を描かせているのも、その裏付けになるかもしれません。
普通、肖像画を描かせるのって元気なときに権勢を誇るためですから、遺影として残そうとしたのでしょうか。義晴の葬儀はかなり簡素なものだったと伝わります。
近江と京の反復横跳び生活ではありましたが、義晴は久々に生涯「将軍」の座を保ち続けた人でもあります。
おそらく、義晴の後半生は息子・義輝が将軍として安定した一生を送るための準備だったのでしょう。
細川氏の始末ができていれば、それも不可能ではなかったはずです。
ただ、その義輝は、歴代の征夷大将軍の中で最も苛烈な最期を迎えることになるのですが……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「足利義晴」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
足利義晴/wikipedia