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【紀州征伐と太田左近】
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石山本願寺 ついに信長に屈する
それから2年後の天正8年(1580年)。
太田左近さんが詫びを入れた石山本願寺も、ついに信長と和睦に至りました。
こちらは言ってしまえば降伏です。本願寺の法主(ほっしゅ・教団の最高指導者)・顕如(けんにょ)は石山本願寺を去り、信者が多かった雑賀の地を頼って雑賀御坊へ。
貝塚御坊(大阪府貝塚市)に移るまでの約3年間、ここを本拠地としました。
一向宗の総本山である本願寺が信長に降伏したことで、太田左近さんら雑賀衆も信長に従うことになりました。
雑賀衆の中でも一番メジャーな雑賀孫一は「信長と敵対し続けた!」と思われがちですが、孫一もこの時から信長と急接近。織田家の忠臣となっています。
ところが、です。雑賀衆の中ではアンチ信長の勢力も当然残っていました。
その代表が土橋守重(つちばしもりしげ)という人物。
娘が雑賀孫一に嫁いだという説もあり、雑賀孫一の義父ともされるお方です。つまり身内同士で方針が大きく変わってしまっている。
と、雑賀孫市は天正10年(1582年)1月23日、刺客を送り込んで義父・土橋守重を殺害! アンチ信長勢力を粛清しました。雑賀衆は内部が結構ドロドロですね……。
ところがです。
皆さんご承知の通り、1582年6月2日に【本能寺の変】が勃発!
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明智光秀に攻められた信長は敗死し、後ろ盾を失った雑賀孫一は、アンチ信長勢力から反撃を受けて失踪。歴史の表舞台から一時的に姿を消します。
その後は、秀吉の家臣となって【小牧・長久手の戦い】などにも従軍したと言われていますが、詳しいことは分かりません。
物語では“権力者に従わないあっけらかんな傾奇者(かぶきもの)”として描かれる雑賀孫一ですが、実情はやはり戦国生き残りをかけたイチ国衆だったのかもしれません。
ちなみに、雑賀孫一の息子とされる「鈴木重朝」(雑賀孫一と同一人物説もあるなど出自の詳細は不明)も秀吉の家臣として【小田原征伐】や【朝鮮出兵】に従軍したとされます。
【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【伏見城の戦い】では西軍につき、徳川家康の幼馴染的な忠臣・鳥居元忠を討ち取る功績を挙げました。
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戦後は西軍に味方したため浪人となったものの、しばらくして伊達政宗の家臣に。
その後は徳川頼房(水戸徳川家の初代・徳川光圀の父)の旗本となり、末裔は代々、水戸徳川家の家臣となっています。
岸和田合戦~秀吉には屈しない!
話を本能寺の変に戻しまして……。
信長の死をキッカケにアンチ信長勢力が主導権を握った雑賀衆。その後は、海と陸、さらには根来衆との間に協力システムが築かれることとなりました。
リーダー的な存在だったのは土橋重治(つちばししげはる)というお方。この人物は暗殺された土橋守重の弟です。
「あれ? どっかで見た名前だな……」と思われる戦国ファンの方もいらっしゃるかもしれません。
そうです、この土橋守重という人物は、明智光秀が【本能寺の変】後に協力をしてもらおうと書状を送った相手として、歴史の書物等々で名前がちょこちょこ出てくる雑賀衆の筆頭です。
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残念ながら大河ドラマ『麒麟がくる』では登場しませんでしたね。
太田左近さんをはじめとする雑賀衆が明智光秀と連携を取ろうとしたかは不明ですが、これまたご存知の通り明智光秀は【山崎の戦い】で秀吉に敗れて、敗走中に死去。時代は秀吉に傾き始めます。
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雑賀衆は、この時勢に大胆にも逆らいます!
天正12年(1584年)、元旦のこと。雑賀衆や根来衆の連合軍は紀州を北上して、なんと秀吉方の岸和田城(大阪府岸和田市)に朝駆けを仕掛けたのです。
天下まっしぐらの秀吉に、まさかの先制攻撃!
雑賀衆による渾身の城攻め――。
しかし、その相手も秀吉と共に修羅場をくぐってきた強者です。
豊臣政権の重臣で、岸和田城主の中村一氏(なかむらかずうじ)は、この奇襲を防ぐと、1月3日、逆に雑賀衆へ攻撃を仕掛け、両軍は16日に激突します。
結果、雑賀衆たちは敗れ、紀州に戻りました。
これに怒った秀吉の紀州征伐が始まる……かと思ったら、そうではありませんでした。
3月に入ると、雑賀衆たちは再び秀吉の隙を突いて挙兵します。
実はこの時、秀吉は織田信雄(のぶかつ・信長の次男)と徳川家康を相手にした合戦【小牧・長久手の戦い】に出陣しなくてはならない状況だったのです。
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家康らと連携を計っていたという雑賀衆は、このタイミングで軍勢を2つに分け、水陸から襲撃。
1つの部隊は2ヶ月前と同じ岸和田城を攻め、もう1つの軍勢が攻め込んだのはなんと摂津国の大坂城でした! 超大胆!
大坂城はまだ築城中ということもあって防御力は低く、城下は雑賀衆たちによって焼き払われたといいます。
雑賀衆、どんだけ秀吉が嫌いなのよ!
かように大坂城を脅かした雑賀衆たちですが、結局は多勢の中村一氏に追い払われ、紀州へ撤退を余儀なくされます。
明確な記録は残されていないものの、太田左近さんも雑賀衆の大将クラスですので、これに参戦していた可能性はあるでしょう。
いやはや、雑賀衆の放胆さを物語る合戦ですね。
なお、この岸和田城を巡る一連の戦いは【岸和田合戦】と呼ばれています。
ついに勃発……第二次紀州征伐
秀吉ではなく家康&織田信雄に味方する道を選んだ雑賀衆。
しかし、戦略巧みな秀吉は織田信雄と和睦を結んで合戦を終結させ、結果的に家康も配下に加えることに成功し、雑賀衆の同盟相手を次々にサレンダーさせていきました。
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残されてしまった雑賀衆……。ヤバくないわけがありません……。
「あの雑賀衆め!絶対に許さん!!」
秀吉がそう言ったかどうかは知りませんが、事あるごとに北上して攻撃を仕掛けてくる雑賀衆ら紀州の軍勢は、秀吉の次なる討伐のターゲットとなってしまいます。
さぁ、お待たせしました…。
こうして、太田左近さんがその名を残すことになる天正13年(1585年)【第二次紀州征伐】が始まったのです!
3月20日に豊臣秀次(ひでつぐ・秀吉の甥)が先陣として3万の軍勢で出陣。翌21日には秀吉が10万以上という大軍で出陣し、岸和田城へ入城しました。
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そして、岸和田城の南に築かれた雑賀衆たちの支城群へ攻撃を仕掛け始めます。
主な支城は5つ。
現在の貝塚市の近木川沿いに、北から
◆畠中城(はたけなかじょう)
◆沢城(さわじょう)
◆積善寺城(しゃくぜんじじょう)
◆高井城(たかいじょう)
◆千石堀城(せんごくぼりじょう)
と連なって築かれていました。
5つの支城郡の中で最も激戦となったのは?
それが千石堀城でした。
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