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【紀州征伐と太田左近】
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大爆発! 千石堀城の戦い
秀吉が岸和田城に入城した3月21日の夕方から豊臣秀次が大将となってさっそく攻撃が開始。
攻め手の武将には“名人久太郎”と称された元信長の側近・堀秀政(ほりひでまさ)や、『麒麟がくる』で駿河太郎さんが演じた筒井順慶(つついじゅんけい・明智光秀の与力大名)などもいます。
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一方、千石堀城を守っていたのは大谷左大仁という根来衆の荒法師。弓の名手でもあり、千数百人いた城兵は火縄銃で武装していました。
城も大規模な二重の堀を設けていて、防御力も優れていたため、豊臣秀次軍は1,000人以上の戦死者を出してしまったと言います。
さすが根来衆&雑賀衆!
攻城戦は翌日の朝方まで行われ、長期戦は必至か――と思われたところで、筒井順慶の軍勢が放った火矢で城に火がつき、延焼して火薬庫に着火。
大爆発が起きたことをキッカケに豊臣秀次軍の総攻撃が行われ、千石堀城は落城しました。
【千石堀城の戦い】といいます。
その他の支城群も、以下のような形で次々に秀吉軍の手に落ちていきました。
畠中城
千石堀城の落城を受けて、自焼して撤退し落城
沢城
二の丸まで落とされてしまい降伏し開城
積善寺城
細川忠興(ただおき)・蒲生氏郷(うじさと)・大谷吉継・池田輝政などメジャーな武将たちの攻撃を凌いでいたものの、貝塚御坊の卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)の説得で開城
高井城
福島正則らの攻撃を受けて落城
主人公の太田左近さんは、どこにいたんでしょう?
ちょっと分かりません(笑)。
さて、和泉国の南部を制圧した秀吉軍は、ついに雑賀衆の本拠地である紀伊国に攻め込みます。
秀吉軍はいくつかの部隊に分けて攻撃を開始。
根来衆の拠点である根来寺もターゲットとなり、3月23日に秀吉軍が迫ると残されていた僧侶たちは逃走し、瞬く間に秀吉軍の手に落ちてしまいました。
そのとき根来寺は炎上し、歴史的な大伽藍は3日間にわたって燃え続けたといいます。
炎上の理由は“秀吉の命令による焼き討ち”とか“秀吉軍の放火”、あるいは“根来寺による自燃”など諸説あります。
運よく燃え残った大塔は現在、国宝に指定されていて、秀吉軍が放った火縄銃の銃弾の痕が残されています。
土橋が逃げても左近は逃げず
そのころ雑賀にも、秀吉軍の脅威は迫っておりました。
22日には雑賀衆の一党だった岡衆(代表は信長を狙撃した伝説のある岡吉正?)が秀吉軍に寝返り、同じく雑賀衆の湊衆を攻撃(湊衆の代表は大坂の陣で豊臣秀頼に味方して紀州で一揆を起こした湊惣右衛門?)。
そして雑賀衆のリーダーだった土橋重治は、同盟相手の土佐国(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を頼って逃走してしまいます。
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信長の死を契機に一つになっていた雑賀衆は、それぞれの生き残りをかけて再び分裂してしまったのです。
しかし、そういったアゲインストの中でも、秀吉軍に降伏せず、また逃走もせず、孤立無援でも戦ったのが太田左近さんの率いる雑賀衆でした。ここには根来衆の残党も加わっています。
秀吉軍は太田城へ攻撃を仕掛けたものの、太田左近さんの軍勢は待ち伏せをして火縄銃を巧みに用いて迎撃。秀吉軍53人(51人とも)を討ち取ったといいます。
千石堀城の戦いなどで多くの将兵を失っていた秀吉は「これ以上の被害を防ごう…」ということで、太田城の周囲に堤防を築き“水攻め”をすることに決定したのです。
秀吉は明石則実(あかしのりざね・黒田官兵衛の従兄弟)に命じて、3月28日(25日、26日とも)から堤防工事をスタート。
46万9,200人を動員し、わずか6日間で、高さ5m前後&全長6~7kmの大堤防を完成させたと言います。
おそらく、動員数や期間に関しては盛りに盛られている情報でしょうけど、4月1日になると太田城の周囲には紀ノ川から水が引き込まれてしまいました。
泳ぎの得意なメンバーが軍船を沈めたり堤防を破壊したり
取り囲んだ約6万の秀吉軍は、総大将の秀吉に副将の豊臣秀次と豊臣秀長(秀吉の弟)。
さらに、宇喜多秀家(秀吉の猶子・後の五大老)、小西行長(後の五奉行)、細川忠興、蒲生氏郷、蜂須賀小六など、錚々たるメンバーでした。
対する太田城の城兵はわずか4,000~5,000。
しかも、その多くが老人や女子供だったといいます。まさに絶望的状況……!
こんな戦況でも屈することのなかったタフな太田左近さんでしたが、非常に運が悪いことに、なんと3日から大雨が降り始めて水量が増してしまいます。
チャンス!と見た秀吉は、中川秀政(信長の娘婿)に命じ、軍船を太田城に寄せて、鉄砲や矢を放って攻撃を仕掛けました。
太田左近さんは怯まずに鉄砲で迎え撃ち、その最中に城兵の中から泳ぎの得意なメンバーを選抜して密かに敵の軍船に近づかせて船に穴を開け、撃沈することに成功したといいます。
また、4月9日には堤防の一部が決壊し、宇喜多秀家の陣営に水がなだれ込み、多くの溺死者を出してしまったそうです。
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実はこの堤防決壊も、太田左近さんの配下によるものと伝わっています。泳ぎが得意な家臣が堤防に接近して破壊したんですね。凄まじい執念……。
太田城の籠城軍の士気は一時的に上がります。
しかし、圧倒的な物量の土木戦を得意とする秀吉軍。すぐさま堤防の修復を行って、再び水攻めが行われました。
……籠城して実に1ヶ月。
城主・太田左近の統率と戦術、城兵の戦力、兵糧の蓄え、どれを取っても充分でしたが、やはり援軍がない状況で秀吉の大軍と籠城戦を繰り広げても、長期的な勝機はありません。
戦況を見計らっていた秀吉は、軍使として蜂須賀小六を太田城に派遣。
小六は、太田左近さんにこのように伝えたそうです。
「棟梁を選び出して、首を差し出せば、城兵や農民の命は助ける」
そこで左近さんは……。
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