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【山名宗全(山名持豊)】
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66歳になっても具足を付けて戦う
義政の弟・義視を担ぎ上げ、宗全は実質的に西軍の旗頭となりました。
最初は劣勢でしたが、大内政弘と合流してからは一進一退。
齢(よわい)すでに60代になっていたこともあり、一時は自害も考えたほど手詰まったようです。
この頃「宗全が東軍に降伏しようとしている」「山名家の人間が東軍に寝返った」などの噂が立ったほどで、おそらくは周囲がそう思ってしまうくらい、宗全が気弱になっていたことがあるのでしょうね。
宗全は「赤入道」というあだ名を持ち、気性の荒さがうかがえる逸話が多い一方で、部下に対して思いやりを見せた話もあります。
良くも悪くも情が濃いタイプと言えましょうか。となると、気弱になったときの落ち込みようも何となく想像がつきますよね。
同じ頃、嫡子の教豊に先立たれ、親族(息子説もあり)の政豊に家督を譲っていますので、その辺も関係したかもしれません。
応仁三年(1469年)=66歳のときには自ら具足を付けて敵兵を追い払ったこともあるほどです。
が、その後さほど時を置かずに重度の中風になり、花押(大名のサイン)を書けないほどになっていました。
中風は脳血管障害の後遺症とされていますので、手が不自由になるのもうなずけます。
後年の話ですが、島津歳久も中風のためにうまく腹を切れず、苦しんだ……とされていますね。
結局戦乱は収まらずに戦国時代へ
おそらく、宗全も日頃のあれこれが思うようにならず、悶々とした気持ちを抱えていたことでしょう。
それを反映してか、この頃も「宗全は和平を望んでいる」という噂が立っています。
えーと……これって、戦がイヤになった西軍の誰かが、大将の病気にかこつけて故意に噂を流してたんじゃないですかね。だとしたら高度な情報戦がこんなところにも。
いずれにせよ、宗全の命は、応仁の乱が始まって6年後の文明五年(1473年)まで持ちこたえました。
それ以前に切腹未遂した時の古傷が原因とも、このときに改めて腹を切ったともいわれていますし、寿命や病気であってもおかしくはありません。
その後、間もなく細川勝元も亡くなり、応仁の乱をおっ始めたメンバーが揃って退場。
戦乱は、それでも終わらず、むしろ戦国時代となって激しさを増すのは皆さんご存じの通りです。
後始末や落とし所まで考えてから戦を始めないと、拡大するばかりということですよね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
山名宗全/wikipedia